第34話
どの位、眠っていたんだろう?
それさえも曖昧だった。
ただ、目を覚ますと、自分ではない温かい感触が体中を包んでいて、それがとても心地よかった。
時間の感覚が全く感じられないまま、ただ、心地よさに身を任せて、再び眠りについた。
それを何度か繰り返し・・・
「ん・・・・」
ようやくちゃんと目が覚めたのは、もう外が随分明るくなってからだった。
やばい、と思って時計を見ると、もうお昼近くで、瞬間仕事の事が脳裏をかすめた。
(あ・・日曜日だっけ・・・)
そう思い至って、再び布団にくるまろうとして・・・やっと、夕べから感じた温かさと心地よさの正体がわかった。
「・・おはよ・・・」
結斗が、同じベッドに入っていた。一晩中、私は結斗に抱きしめられたまま、眠っていたみたいだ。
結斗は既に目を覚まして随分経っているみたいで、寝ぼけている様子は全くない。
「大丈夫か?」
「・・・ん・・・」
曖昧にそう答えた。結斗は、ここに来るときに着ていた服のままだで、腕時計やアクセサリーだけが外され、ベッドサイドのテーブルに置いてあった
そして私も、ブラウスのボタンが少し外されていたけれど、それは息苦しくなようにしてくれたのだろうか?
「あの・・・結斗、夕べの事・・・」
夕べの事を思い出して、罪悪感と嫌悪感に襲われた。
パニックを起こしていたとはいえ、まるで八つ当たりするように、結斗に酷く醜い自分の内面を吐露してしまった。
「酷い事言って・・・ごめん」
一晩眠って、少し冷静になれた。そして改めて、自分の言っていた事に自己嫌悪が沸き起こる。
夕べの事は、ずっと、誰にも言うつもりはなかったし、これからだって、抱え続けたまま、生きるつもりだったのに・・・
「気にするな。俺も、悪かったな。
でも・・・あの後、過呼吸発作起こしてたぞ」
「あ・・・」
思い当るフシがある。
感情を吐露しながらだんだん息苦しくなっていった。
意識がなくなったのも、それが原因…だろう。
「ごめん・・・」
「謝るな。原因作ったのは俺だから」
自分の服装に改めて目をやった。服は緩められて、首から胸の辺りまでのブラウスのボタンは外されていた。過呼吸を起こした私への処置の為だろう。
「恩を売る気はないけど・・・
信じてほしい」
「・・何を?」
結斗は、身体をおこすと、私を再びそっと抱きしめた。
昨日は、もっと激しく抱きしめられたけど、今は、昨日よりもずっと、優しく、温かかった。壊れ物を扱うような・・・って、こういう仕草を言うのかな・・と、まるで他人事のように思った。
「俺を。
俺が、夕べ、お前に話したこと、全部。
俺は、お前の事・・・性欲処理に使った事なんか、一度だってない。
この前の事を弁解するつもりもないけど。
あの時、俺、お前の事好きだったから。
酔った勢いだったけど・・・ちゃんと好きだから」
ちゃんと好きだから・・・
そういっている結斗の顔は、柄にもなく照れていて、耳まで真っ赤だった。
普段から俺様性格でどSな結斗のこんな顔、滅多に見られない。
「ん・・・ごめんなさい・・・」
確かにそうだ。
結斗が本当に、私を性欲処理に使うんだったら。
夕べだって、見境なく力尽くで性欲処理に使っただろう。
弱って抜け殻になった私を手籠めにするなんて、結斗にとっては朝飯前だ。
それなのに私ときたら・・・
「私も、酷い事言って、ごめんなさい」
抱きしめられたまま、結斗の胸にささやくように言うと、結斗がふっと笑う声が聞こえた。
「いいよ。
おかげで、花奏の考えてること、判ったし、お前の寝顔まで見れたんだ。役得だ」
「役得って・・・」
彼の言葉に呆れて笑ったけれど、彼は真面目に言葉を続けた。
「・・・ずっと、一人で抱え続けてたんだな」
何を、なんて、彼はもう言わなかった。それは、ストーカーの事だけじゃない。
今まで、抱え続けていた事、すべての事だ・・・
「宿命だよ」
柄にもない言葉が、自然と口から出てきた。
兄が人気芸能人、私自身は元事務所関係者。好む、好まざるにかかわらず、この二つの肩書を背負っちゃったのは、他でもない私。
選ぶことが出来ない選択肢だったのも、確かだ。
「ストーカーに遭うのも、か?」
心なしか、結斗の声は固い。
「・・・そうだね。
・・・でも、ストーカーは、事務所関係ないでしょ?
結斗にも増沢君にも・・・事務所にも余計な迷惑かけるつもり、ないよ」
私の出した、ストーカーの結論に、結斗は頷いてはくれない。
「タレント目当てだろうとそうでなかろうと・・・お前がストーカーに遭っている、ってのには変わらないだろ?」
「それだって、私一人が堪え切れれば、誰も傷つかないし、迷惑かけないでしょ?」
「それを、一人で背負う、って言うんだよ!」
結斗は、私を抱きしめる腕を緩めると、私の頬を両掌で優しく挟んだ。
「何度も言うけど。
俺・・・花奏が好きだ。
惚れた女がそんなひどい目に遭ってるのを、ほったらかしに出来るほど、俺は薄情じゃないつもりだけど?」
文句あるか?
最後の一言は、いつもの結斗のような、俺様口調だった。
その口調に、私は思わず吹き出した。昨日、うちに来てから、今までで、やっと結斗らしい言葉を聞いた気がした。
「・・・何だよ」
「何でもない」
不思議なもので。
人と、こんなにも体温を感じるような距離で話をしたのは、久しぶりような気がした。
子供の頃は、体温を感じることはあった。兄がずっとそばにいてくれた頃は・・・でも兄が研究生になってからは・・・なかった。
兄がいなくなった心の空洞を、自分一人の体温だけで埋め続けていた。大切な人が、自分から離れてゆく恐怖を、もう二度と味わいたくなかったから。
最後に人の体温を感じたのは、多分、大学の時。失恋がショックで自殺しようとして、茉莉香さんや千秋マネージャーに止められた時・・・あれ以来だ。もう10年近くたっている。
自分以外の世界を、断熱ガラスの向こう側の出来事のように感じていた。こちらからも向こうからも、お互いの姿は見えるし、声も聞こえるけれど、ちゃんとした意味で触れることのない世界。
本気で触れれば情が生まれる。情を育ててしまうと、それを失った時、傷つくのは私自身だ。
だからこそ、自分と他人に一線を引いた。人の温度の感じない線を挟んで、生きてきた。
でも・・・
知らなかった。
他人の体温が、こんなにも心地よいなんて・・・
この一晩ずっと感じていた体温も酷く心地よかった。
「ねえ、結斗・・・」
「なんだよ?」
「一つ、お願いがあるの」
できるなら、もう一度だけ・・・
「なんだ?」
「私の事・・もう一度だけ、ぎゅってして?」
言ってから、顔が赤くなる気がした。抱きしめて、と言っているようなものだ。でも、もう少しだけ、あの心地よい体温に触れていたかった。
結斗の顔を見上げながらそう言うと、彼はふっと柔らかく笑った。
そして、再び、私の身体に腕を回した。
(あ・・・これだ・・・)
夕べからずっと感じていた、安心する温かさと心地よさは、結斗の、だったんだ・・・
その心地よさをもう一度確認するように、身体にしみこませながら・・・
「花奏?」
気が付くと、私は、結斗にしがみ付きながら泣いていた。
「何でも・・・ない・・・・」
悲しいわけでもないのに、涙が止まらなかった。
「ごめん・・・しばらく・・・このままで・・・いて・・・」
今だけは、この結斗の持つ温かさに身をゆだねて、甘えてしまおう・・・
次に顔を上げるときは、いつもの私に戻るから、今だけ、甘えさせて?
そんな思いが伝わったのかは判らないけれど、結斗は私を抱きしめたまま、再びベッドに横になった。
結斗の手が、私の髪を優しく梳いてくれて、それが余計に心地よかった。
耳をくすぐるように、低い声で聞こえてきたのは、聴きなれない、英語の歌だった。
(これ・・・結斗のソロ曲だ・・・)
"Colors"の最新アルバムに収録されている、メンバーそれぞれのソロ曲、その中の、結斗のソロ曲だ。
確かこの曲を結斗が作るとき、英語が苦手な結斗が、"どうしても英語で歌を作りたい"と、私に相談を持ち掛けて、結斗が作った歌詞を、私が英訳した。
ダンスヴォーカルユニットにしては珍しい静かなバラードで、普段、話す時の彼の声とは違う、低い色っぽいその声を聴いているだけで、まるで、たまりつづけていた心の疲労が、するりするりと抜けてゆくよう。
そういえば・・・私が芸能界に関わってしまった子供の頃から、結斗はずっと私の側・・・近くも遠くもない場所にいた。名前を呼べば振り返る、彼が私を呼べばその声が聞こえる場所に、それぞれ、いたのだ。
そして、事務所に関わったこの20年の間、彼は途切れることなく、私の対人関係の中の、限りなく中心に近い場所にいた。
夕べ、結斗が、"近すぎて"自分の気持ちに気づかなかった、って言っていた。
その言葉の意味が、やっと、分かった気がした。
(近すぎて、見えなかったことが、私にもあったのかもね・・・)
そのまま私は、結斗に身をゆだねたまま、再び微睡んだ。
「・・・なあ? 花奏?」
うとうとと眠りにつく瞬間、結斗の声が、小さく耳をかすめた。
返事も出来ないままだったけれど、結斗はそんなもの期待していないかのように、独り言のようにつぶやいた。
「お前の言う通り・・・俺、他の女の事、性欲処理みたいに使ってた。
それは否定しない。
でも・・・花奏の事だけは・・・今も昔も、そんな風に見たこともないし、あの日お前の事抱いたのも・・・性欲処理なんかじゃない」
耳をくすぐる甘い囁きに、心地よささえ感じながら、私はそれに返事をすることさえ出来ず、再び眠りの底へと落ちていった。
「・・・愛してる・・・」
最後に耳の奥に響いたのは、今まで聞いたこともない位、甘い、結斗の声だった・・・




