第32話
部屋に入ると、結斗は、リビングをぐるりと見回していた。
「・・・どうしたの?」
「や、お前の部屋、こんな内装だったっけ?」
「・・・? うん。兄が出てってから、ずっとこうだよ」
兄がいた頃は、兄の部屋に私が居候する形だったので、兄の趣味の部屋だった。でも、兄が引っ越し、それに伴っ家具とか家電とかは入
れ替えたり買い換えた。今のこの部屋はあの頃の男性趣味むき出し、というより、落ち着いた色合いの、幾らかは女性の部屋っぽくなっ
ている。
「何度も来てる癖に、部屋の内装、見てなかったの?」
「・・・そうだな。
いつもここに来るときは酔っ払ってるからな。内装まで見てなかったかもな」
「酷いね」
呆れて笑ったけど、彼は笑わなないまま、ただ、どうしてよいかわからないのか、突っ立ってた。
「座ったら? 」
「あ?ああ・・・」
「どうかしたの?いつもは遠慮なくソファー占領するのにね」
彼の動きがおかしくて、思わず笑ってしまったけど、彼の表情は変わらなかった。
どこか・・おかしいような気がする。
素面でここに来るのも、こんなに遠慮がちに私の部屋にいるのも、初めてだ。
「なんか飲む?なんだったら、ワインでもあける?」
これもいつもの事だった。酔っ払って転がり込んできて、この部屋でさらに酒宴を再開する時もある。酔いつぶれているときはお茶や
ノンカフェインコーヒーを出してあげるけど、何も出さない事はない。
キッチンの端にあるワインセラーは、兄のお下がりだった。兄が引っ越すときに兄が新しいのを買うから・・・と言って、譲ってもら
ったものだ。10本ほど入る家庭用にしては大きく感じるけれど、兄や事務所のタレントさんやスタッフさんが来た時に持ってきてくれた
ワインや、そんな時にみんなで飲むワインが入っているくらいで、私の飲む酒は殆ど入っていない。
「・・・酒は・・・いい」
「そう? 珍しいね」
思った事を素直に口に出すと、結斗は傷ついたような顔をして、俯いた。そんな彼を不安に思いながら、普通に緑茶を淹れた。この時
間にコーヒーを飲むと、眠れなくなりそうだ。結斗も疲れているみたいだし、コーヒーより、胃に負担が少ないものが良いだろう。
「どうぞ」
「サンキュ」
お茶を出して、私も結斗の隣に座った。いつもと違う彼に違和感を感じながら、私はいつもよりも距離をおいて座った。
私と結斗、それぞれお茶を飲みながら、何も話さなかった。いつもとは違う空気感も、いつもとは違う沈黙も、自分の部屋なのに居心
地が悪かった。
用がある、と言ってやって来た結斗。その用の話も全く始まらない。
・・・用って、何?
いつもだったら、そう聞いている。でも、この雰囲気ではとてもじゃないけど聞くことなんかできなかった。
どの位、時間が過ぎてからだろう?その間、時計の秒針だけが、ひどく大きな音に聞こえた。
「この間は・・・」
やっと、結斗は口を開いた。
「この間は、ごめん」
結斗は、俯いたままそう言った。
それが何を指しているか、聞き返すまでもない。あの、悪夢のような過ちの夜。
驚いて結斗を見た。まさか結斗が謝罪なんかするとは思いもしなかった。
いつも結斗が夜の相手に選んでいる、名前も知らないキャバ嬢や、裏で話題にのぼっているアイドルの身代わりにされただけ。そう思っ
ていた。単なる性欲の捌け口に使われただけ・・・
そう割り切り、私の現実生活を最優先することで、平常心を保っていた。
他の女だったら、結斗の一晩の相手になって喜んで言いふらす人が多いだろうから、その行為に対して結斗が謝罪なんかするわけがない。
行為そのものに、彼は罪悪感なんかもっていないのだから。まして、酔っ払った結斗が、その行為を覚えているとは思えない。
それを差し引いても、ドSで俺様気質な結斗が謝っているのだ。驚くな、という方が無理だ。
突然のことに、返す言葉を失っていると、結斗は、ゆるゆると顔を上げた。
「あの日の事、言い訳するつもりはない。
確かに酔っ払ってたけど、あの日のことは、ちゃんと覚えてる。
誰でも良かったわけじゃないし、
その・・・花奏の言葉を使うと、
お前を“性欲処理”に使ったつもりもない」
「じゃあ!」
じゃあなんであんな事したのよ?
私が司さんの事好きなの、結斗は知ってるのに。
自分に心が向いていない女に、どうして無理やりあんな事したのよ!?
・・・そう聞こうと思った。
でも、その問いかけをぶつける前に、結斗は“言い訳”という明確な答えを、ゆっくりと話し始めた。
「お前が、司さんしか見ていなかったから、
誰のものにもならないと思ってた。
だから、意識もしてなかった。たとえ何があっても、花奏は花奏のままで、ここにいると思い込んでた。
でも、お前が、あの日、あの男に、あの店で告白されてるの見て、初めて焦ったんだ。
誰のものにもならない、ずっと変わらずにここにいると思ってた花奏が、いつもとは違う姿して、俺でも司さんでもない、俺たちが全然知らない奴のものになるなんて、考えたこともなかった。
あの男に嫉妬したし、そんとき初めて、俺、お前のこと好きだったんだって、自覚した」
彼の言葉に、私は息をのんだ。
好き? 結斗が、私を?
驚く私に、さらに言葉は続いた。
「いつから、なんてわかんねぇ。わかってたら、俺、その時点でお前の事、力尽くで奪ってる。
司さんなんか、さっさとお前の心から追い出して、無理にでも俺で一杯にしてる。
ずっと・・・お前があんまり当たり前に近くにいすぎて、気づかなかったんだ。
もしかしたら、あの夜、お前がさっきの男に告白されてるの見たとき・・・初めてお前の事好きになったのかもな。
だから、あの夜のことは弁解しない。酷いことしたって、わかってる。
・・・ごめん・・・」
今まで見たこともない、弱い口調でそう言う結斗に、ただただ驚く事しか出来なかった。
「花奏が・・・好きだ」
驚く私に、この上なく驚く言葉が、静かに投げかけられた。
「あの日、花奏と寝たとき」
私の驚きをよそに、結斗はさらに言葉を続けた。
「お前、魘されていた。
何かに怖がって、泣いてた。
それ見たとき・・・俺、お前に本当に酷い事したんだって思った。
でも、謝れなかった。
謝っちまったら、自分の気持ちの持って行き場も、お前との今までの関係も、これからの関係も、無くしちまいそうで・・・怖かった」
「あれはっ・・・」
あの夜・・・
結斗に抱きしめられて眠った、あの夜の事を思い出す。
結斗との行為に対する羞恥や嫌悪は、あの時も今もあるけれど、あの時泣いていたのは、あの夜みていた夢のせい。
初めて、兄や司さん以外の人を好きになったときのこと。
愚かにも、彼の甘い言葉に溺れ、信じてしまったこと。
それ故に、自分の正体を晒し・・・そして裏切られていた事。
彼の目的は、私ではなく、事務所のタレントへと変わって行ったこと・・・
今となっては、茉莉花さんと千秋マネージャーしかしらない、あの出来事。
あの日、結斗の腕の中で、フラッシュバックしていた・・・
「もう・・・いいよ」
そんな過去の話、今の結斗に話しても意味のないことだし、関係のない話だ。
そもそも、芸能人の結斗に理解しろ、という事事体、無理な相談だ。
芸能人本人に、芸能人の家族の影の部分を暴露したって、理解できるわけがない。
「私は・・・」
今年は厄年だったっけ? それとも一生に一度のモテ期かな?
草野先生・増沢君、そして、結斗・・・この何か月かで3人に告白を受けた。一生のうちにこんなにもモテる年、二度とないだろう。
そんなことを考えながらも、こんなたくさんの愛の告白に、心が動かない。
有頂天になってもバチは当たらないと思うのに。
きっと、今本当に好きな人・・・司さんからの告白ではないからだし、過去のトラウマのこともあるのだろう。それに何より・・・今の
私にとって一番の問題ごとは、告白云々よりも、あのストーカーの方だ。
醒めた心でそう思いながら・・・わたしは呟いた。
「私は、もう恋はできないし、したくない」
心の中で決まりきった想いを、完結に、私は結斗に伝えた。
「司さん・・・か?」
「・・・・・・・」
結斗の言葉に、私は言葉を濁した。
確かに司さんの事は大好きだ。初恋の人だし、ずっとずっと好きだったし、今でも好きだ。
でも、司さんの存在に関係なく、私は、もう恋愛などしない・・・
そりゃあ、司さんと両想いになれたら、と夢見たことは何度もある。告白しようとしたことだって数えきれないほどある。
でも、所詮アイドルや芸能人に対するファンの心理と大して変わらない。他のファンよりもほんの少し、近くにいるだけの存在だ。そ
して司さんにとっての私は、相方の妹で、事務所関係者。
その人間関係の間に、恋愛感情など、挟むわけにはいかない。バイト時代なら公私混同だ、と言われるだろうし、今だったら、“隼人
の妹”という立場を利用して・・・と周囲から言われても仕方ないことだ。
それに、仕事に対して、誰よりも真摯に、ストイックに向き合う司さん、その彼と恋人同士に・・・など、なれそうもない。彼にとっ
て何より大切なのは、仕事なのだから。ずっと前から判り切っていた。
「まあ、いいか。司さん、だもんな」
結斗はため息をつくと、そう言って話を変えた。
内心ほっとしながら、私は改めて結斗の顔をみた。これ以上、司さんの話にも、恋愛話にも、触れられたくない。
「今日は、別の要件があってきたんだ」
「何?」
確かに、結斗が、わざわざこの間の謝罪の為だけの為にここに来るとは思えない。他に要件がある筈だ・・・
結斗は、大きく深呼吸すると、言葉短く、言い放った。




