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第31話

 やがて、楽しい時間は終わり、私達は店を出た。割り勘でいい、と言ったのに、草野先生は掴んだ伝票を離してくれなかった。


「奢るよ」


「いいですよ!」


「誘ったのは俺なんだから、これくらいカッコつけさせて」


 おどけてそう言うと、さっさと伝票を持って行って会計を済ませてしまった。


「ありがとうございました」

 

 店の外に出て、支払ってくれたお礼を言うと、草野先生はとんでもない、と首を横に振った。


「こちらこそ、美味しいし店、教えてくれてありがとう。

それと・・・いい思い出になったよ」


 その言葉は何を表すのか、理解するのに数秒かかった。


「あっ・・・」

 

 そう、草野さんは、夏休みになったら、アメリカの姉妹校に行ってしまうのだ。帰国は三年後、と聞いている。


「アメリカに行く前に、一度くらい新堂先生と二人で、ゆっくり話がしたかったんだ。だから・・・話が出来てうれしかった」


 そんなことを言われてしまうと、また、心がぐらついてしまう。


「まあ、日本にはもう少しの間はいるけど、お別れ会も横山先生達が企画してくれるみたいだし、引継ぎも始まったし、ああ、俺はもういなくなるんだって思ってたところで、ちょっと感傷的だったんだ。・・・だから、今日、一緒に食事出来て、嬉しかった」


 飾り気のない言葉で、そう言われた。


「私も・・・楽しかったです」


 食事中から、心の何処かがで何かが引っかかっていた。その“何か”を見て見ぬ振りをして、私がは嘘偽りのない言葉で返した。


すると、草野先生は再び私の手を取った。


「・・・家、どこ? 送ってくよ?」


「いいです。駅からすぐですから!」


 この店から地下鉄の駅まで歩いてすぐだし、この駅から、私の住む家の最寄り駅までは地下鉄で乗り換えなしで行ける。最寄り駅からだって歩いてすぐだ。いくら時間が遅くなったとはいえ、草野先生を途中下車させるわけにはいかない。


「もう少し、話したい・・・ってのは駄目かな?」


「えっ!」


「新堂先生と、もう少し話がしたいから、家まで送ってく。それじゃあ駄目か?」


「・・・」


 正直言ってしまうと、あまり、他の人に私の住んでいるところを知られたくない。何かのはずみで、兄と私の事を他人に知られたくないからだ。


 でも、草野先生から甘くささやかれたその言葉は、心の中で痺れるように疼き、自宅を知られてしまうリスクや、兄と私の関係が他人にばれてしまう恐怖にさえも、目隠しさせる威力があった。


(弱ってるのかなぁ…)


 ストーカーの事とか、結斗との一件とか、心落ち着かなくなる事件が多かった。そのせいか、こんな風に心くすぐられる言葉を投げかけられると、すぐにぐらついてしまう。


 以前なら、こんなこと、絶対になかったのに。


 絶対恋しちゃいけないような立場の司さんを本気で好きになってしまってからは、誰の、どんな甘い言葉にも、心揺さぶられる事、なかった。


 それなのに・・・


 ぐらついた理由は、もしかしたら・・・


 夕方、劇場の関係者口で見かけた司さんが、教師の姿をした私を見ても、花奏だと気づかなかったからかもしれない。


 結斗も、増沢君も気づいてくれたのに、司さんだけが気づかなかったから・・・その現実の痛みが、今になってじりじりと心に痛んだ。


 もっとも、増沢君が私だと気づいたのは、私が身に着けていた腕時計のおかげだ、と言ってくれたし、結斗だって、気付いたのはきっと外見ではない何かだろう。


 もしも・・・


 草野先生に私の正体を話したら?


 私が、新堂隼人の妹だと話したら?


 草野先生は今まで通りいてくれるだろうか?


 それとも、あの人気俳優"新堂隼人"の妹として扱うの?


 そして、出来もしない便宜を図るように持ち込むの・・・?


 そう思った瞬間、言いようのない嫌悪感に鳥肌が立った。


「どうかしたの?」


「えっ!」


「いや・・・なんか・・・黙り込んだから」


「いいえ、なんでもないです!」


 そう言って、私は再び、心の中に蟠る事柄から目を逸らした。


 何回目を逸らしても、ついて回ってくる現実達。


 せめて今だけは、目を逸らしていたかった。


 それなのに。


 草野先生と他愛もない話をしながら、気が付くと私の心は、目の前にいる草野先生とは全然関係ない事を考えていた。


 ストーカーの事、あの写真に写っていた結斗や増沢君の事。そして、私の手元にある写真と同じものを持っているであろうストーカーの目的・・・


 もしも。

 

 ストーカーの目的が私などではなく、アイドルのスキャンダルだったら、あんな写真とっくに流出しているだろう。特に、増沢君と私の写真は、彼が私の頬にキスしてる写真なんだから。


 いくら増沢君が今はデビュー前の無名な存在だとしても、知名度皆無というわけではない。結斗のいるグループ"Colors"のバックダンサーをやったり、端役とはいえ兄の舞台にも出ているし、アイドル誌に小さく出たりもしているのだから。その増沢君と私の写真が流出すれば、増沢君にとっても、事務所にとっても大きなダメージになる。


 それが、今だにされている気配がない。


 という事は、目的は・・・私自身。


 結局答えは、そこに行きついてしまう。


 そんな事を考えながら、やがて地下鉄は私の家の最寄り駅へと着いた。私が降りると、草野先生も当然のように降りた。


「あ、もう大丈夫です!ここからは一人で帰れます!」


 早く一人で落ち着いて考えたくてそう言ったけど、草野先生は引かなかった。


「もう真っ暗だし、一人歩きは危ないよ」


「そんな子供じゃないですよ!」


「それにここだったら、俺にとって単なる途中下車だし、ここから近くなんだろ? 大した時間のロスじゃない。気にするな」


 砕けた口調でそう言った。結局断り切れず、私は家まで送ってもらうことになった。


 実際、駅から歩いて五分程の距離だけど、繁華街から一歩離れると、人も少なくなる。それにストーカーの事もあったし、こんな遅い時間、一人で歩くのは気が引けたし、仕事で遅くなる時も怖かった。


 でも、草野先生がいてくれたおかげで、いつもここを歩く時ほどの恐怖はなかった。

 

 やがて、マンションが見えてきたとき。私は足を止めた。


「私の家、すぐそこなんで、ここでもう大丈夫です。

 ありがとうございました・・・」


 そう言って、草野先生にお辞儀をした時だった。


(あっ!・・・・)


 ストーカー事件以来、いつも感じている、あの視線を感じた。と同時に。


(カシャッ!)


 カメラのシャッターを切る音と、一瞬のフラッシュの光が見えた。その瞬間、ストーカーへのリアルな恐怖が首をもたげた。


「っひっ!」


 それらの異常を、草野先生も気づいたらしい。


 草野先生は、怯える私をその場において、フラッシュが光った方へと走って行った。


「草野先生っ!」


 フラッシュが光ったのと、視線を感じたのは、同じ方角だった。


 草野先生は、ものすごいスピードで、その視線の主、フラッシュの方向へと走った。


 すると・・暗くてはっきりとは見えなかったけれど・・電柱の後ろに人の影が見えた。その人も、草野先生にびっくりしたようで、走って逃走した。


(あれが・・・ストーカー?)


 そう思った瞬間、恐怖で足が竦んだ。でも、それも一瞬だけで、私も草野先生の背中を追った。


 けれど、運動部出身で彼自身も運動部の顧問をしている草野先生の足に、私がすぐに追いつく訳もなく、草野先生はあっという間に、その影を追って表通りへと出てしまった。


「まってっ! 草野先生っ!」


 かすれた声でそう呼んだけど、草野先生は止まらなかった。


 そして、やっとの思いで私も表通りにだどりついた、その時・・・


「うわっ!」


 突然、ここにはいない筈の第三者の声がした。


 私は、はぁ、はぁ、と荒く息をしながら、やっと、立ちすくんでいる草野先生に追いついた。


 草野先生の目の前には、地面に尻餅をついている、見覚えのある男の人がいた。


 そして、その男の人のずっと後ろには、さっき私達が追っていた、あの視線の主・・・ストーカーが走り去ってゆく姿が一瞬だけ小さく見えた。今から走ったとしても、さすがの草野先生も、追いつかないだろう。


「・・ゆ・・ゆい・・・」


 尻餅をついた男の人は、誰あろう、結斗だった。びっくりしてその名前を口に出しそうになったけれど、マンション前の通りと比べてここは、時間が遅いとはいえ、人通りも少し、ある。そんなところで彼の名前を口に出すわけにはいかない。


「花奏! どうしたんだよ、こんなところで!」


 結斗は、尻餅をついたまま、立ち上がることも忘れたかのように私を見上げてそう言った。


「どうって・・・」


 説明しようにも、ストーカーや視線の話など、結斗に話すわけにはいかない。一瞬、私と結斗の間にできた間に、草野先生が割り込むように入ってきた。


「新堂先生、ごめん。逃げられた!」


 草野先生は、悔しそうに私にそう言った。


「いいですよ、もう・・・草野先生、怪我はないですか?」


「ああ・・・でも何なんだあれ?」


 ストーカーされていることは、増沢君以外、誰にも話していない。もちろん学校側にも、だ。だから草野先生も知っているわけがない。


「なんなんだよ今の奴! ぶつかって謝りもしないで!」


 一方結斗も不満たっぷりな声でそう言った。私は結斗に手を貸して、立ち上がらせた。結斗は今日舞台を見に来た時と同じ服装をしていた。きっと、兄達と食事をした帰りにでも寄ったのだろう。変装していてくれて助かった。


「サンキュ」


「大丈夫?怪我は? ぶつけたりしてない?」


「ねぇよ」


「そう・・よかった」


 ほっと息を吐いた。こんなところで下手に怪我したら、仕事に影響が出てしまう。結斗の所属するグループ"Colors"もダンス・ヴォーカルユニットなのだ。小さな怪我でもダンスに影響が出たら大変だ。

  

 私と結斗の様子を見て、草野さんは、


「何? 新堂先生の知り合い?」


 結斗の事をそう聞いてきた。私は、一瞬答えに詰まったけれど、結斗がすかさず、


「花奏の幼馴染です」


 そうフォローしてくれた。


 幼馴染・・・結斗の口から私の事をそんな風に説明した事など今まで一度もなかった。確かに、子供の頃から知っている仲なので、幼馴染には変わりないけれど、世間一般的に言う"幼馴染"とは随分意味合いが異なる。かたやアイドル候補生、かたや人気アイドルの妹。そんな形で始まった人間関係に、"幼馴染"という言葉が当てはまるなんて思っていないし、そもそもあてはめよう、と思ったこともない。


「こんな時間にどうしたのよ!」


 それでも、ここは彼の機転に私も乗ることにした。それが最善だと思った。


「お前ん所に行くところだったんだよ! お前の兄貴に頼まれたんだ」


 彼は簡潔にそう言った。


「兄に・・?」


 結斗の言葉に、返す言葉を悩んでいると、それを察してくれた草野先生が、軽くため息をついた。


「それじゃ、もう安心だね。俺はここで」


「あ!草野先生、今日はありがとうございました!」


「どういたしまして。それじゃ、おやすみなさい。また来週な」


 そう言って、私に笑顔でそう言うと、大通りを地下鉄乗り場に向かって去って行った。


 去る瞬間、結斗に冷たい視線を送っていたのは、気のせいだったのか、・・・一瞬、草野先生の視線がそんな風に見えた。


 去ってゆく草野先生が見えなくなるまで見送りながら、私は今の状況を心の中で整理した。


 マンションの近くで感じた視線は、いつも感じるあの視線と同じものだった。


 それと、フラッシュの光・・・私と草野先生の写真を撮ったの?


 そして、草野先生に突然追われて、視線の主は逃げて・・・大通りで結斗にぶつかった。


 足が速い草野先生にも捕まらず、運動神経も反射神経も良い結斗がよけられなかったところを見ると、相手はかなりのスピードで走っていた、という事だろうか・・・?


誰かに雇われた素行調査のプロ? 一体何のために? 私と事務所と兄の関係? 一瞬、それらの言葉が脳裏をかすめた。


「花奏? どうかしたのか?」


 考え込んでしまった私の肩を、結斗がそっと触れ、軽くゆすった。それではっと我に返り、至近距離に結斗がいるのにやっと気づいた。


「ううん、なんでもない!」


 私は、ストーカーの事を取りあえず考えの外に押し出した。今、結斗にストーカーの事を話すわけにはいかない。結斗にまで迷惑がかかる。


「それより、兄の用って?」


 兄が、結斗を使い走りにすることなんて、今までなかった。何か大変なことが・・・


 そう心配した私に、結斗はあっさり一言。


「ああ、あれ、嘘」


 断言した。


「え?」


「まさかお前の同僚の前で、正体明かすわけにはいかないだろ?

 お前の職場の人、お前が新堂隼人の妹だって知らないんだろ?


 でも、お前には大事な用があるし、お前にはその・・・あんなことしちまったから、普通に会いに行ったって会ってくれねぇだろ?


今日だって劇場でずっと、俺とは目も合わせなかったし。


 だから隼人さんの名前使って、部屋に入れてもらおうと思ってた」


 心なしか、結斗の言葉は、いつもの俺様な口調より、幾分柔らかく、不貞腐れて聞こえた。それは不思議なもので、出会った時から俺様な雰囲気だった彼が、こんなに素直に、不思議な雰囲気を醸し出していると、私も調子が狂いそうだ。


「・・・用って・・・何?」


「いろいろ聞きたいことがあるんだけど・・・

 とりあえず、お前の部屋に入れてくれないか?

 他人に見られたら、ヤバいだろ?」


 珍しいこともあるものだ。いつもは、こんな風に"部屋に入れてくれないか?"なんて言わない。大概、"ちょっといいか?""部屋に入れろ"と俺様口調で命令するのに。


「いいけど・・結斗、何かあったの?」


「別に」


「酔っ払っても・・・ない?」


「今日はそんな気分じゃない」


「珍しいね」


結斗が私の部屋に来る時は、大概夜で、飲み会後で酔っ払っている。素面で来たことなんか、兄と同居した頃も含めて、初めてじゃないだろうか?


 そんな結斗の様子の不自然さに半ば首を傾げながら、私は結斗と一緒にマンションへと帰った。


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