第22話
「姉御・・・」
感情の波が収まった後。
増沢君は、遠慮がちに、そう声をかけてくれた。
こんなことを話したのだ。増沢君は私の事なんか愛想つかしたかもしれない。
でも、それでもいいと思った。
事務所のバイトを辞めた時点で、私はもう事務所とは無関係だし、"隼人の妹"であることを除けば、私は一般人とは変わりないのだから・・・
増沢君は、半ば自棄になっている私に、静かに言った。
「・・・それでも、俺は、姉御の事、好きです」
よどみない、はっきりとした声で、そう言った。
「研究生みんなも、きっとそう言うと思います。
だって姉御は、自分が嫌いな業界の中で・・・
姉御が嫌いな芸能人を目指してる研究生の事、ずっと、否定しなかった。
研究生が、姉御が嫌いな芸能人になるのを応援してくれてた。
この前だって、俺がデビュー決まったときも、まるで自分の事みたいに喜んでくれた・・・」
それが私の仕事だったのよ?そう言おうとした私の言葉より先に、彼の言葉が続いた。
「俺・・・
姉御が事務所で研究生を励ましてくれた言葉や行動や、姿、全部覚えてます。
みんな、それを見て、まっすぐに、良識や常識を失わずに育ったんです。
一生、忘れないと思います。
姉御の言葉も行動も、それを通して俺たちに伝えてくれた事も、全部、全部、嘘なんかなかった。
たとえ、姉御は芸能人や芸能界嫌いだとしても、姉御はいつも、芸能人候補生としてじゃなくて、一人の人間として、俺たちと接してくれてたんでしょう?
周りにいる研究生が、夢叶えてアイドルデビューするって事は、姉御が嫌いな業界へ入ってゆく事でしょう?
それが、姉御にとってどんだけ苦しくて孤独か、なんて・・・俺、想像つかないし、理解してあげる事も出来ないけど・・・
俺は、姉御が芸能界の事をどう思っていようと・・・姉御の事、好きですよ。
ねえ、姉御?
それだけじゃ、駄目ですか?
それ以上、何が・・・必要ですか?
これ以上、何が、姉御の孤独を、埋められるんですか?」
そう言うと、増沢君は。
不器用な手で、私の髪を優しく撫でてくれた。
心の中に抱え続けていた想いを吐き出し、疲れ切った私を、彼の手はゆっくりと癒していった。
その手はとても温かくて、私はその手に甘えながら、再び涙腺が崩壊していった・・・
カフェを出たときは、すでに辺りは真っ暗だった。
ストーカーの事もあるし、何かあったら大変だから。と、増沢君はマンションの前まで、私を送ってくれた。そんな大げさな、と断ろうとした私に、
「それくらいさせてください」
と優しく言ってくれた。そして、
「断ったら、さっきの話、ぜーんぶ社長と隼人さんにバラしちゃいますよ!」
と本気とも冗談ともつかない事を言い出しだ。
「私が増沢君と一緒の所、撮られたらりストーカーに目撃されたらどうするのよ!」
思わず言い返すと、
「生徒が、先生を送って帰るのの、どこか悪いんですか? 少なくとも、俺まだデビュー前で顔売れてないし、今は芸能人じゃありません。先輩たち程知名度ないですよ。写真撮られたら、その時はその時です!」
そう断言されてしまい、結局私が折れてしまった。
駅からマンションまで、歩いてそう時間はかからない。あっという間にマンションの前に着いた。
「ありがとう。増沢君」
「どういたしまして」
「気を付けて帰ってね。
デビュー前なんだから、くれぐれも怪我とか騒ぎとかには気を付けて」
まるでバイト時代みたいなことを言ってしまったのは、あの頃の増沢君と私の人間関係を、私が勝手に引きずっているからだろうか?
すると、増沢君は、急に真面目な顔をして、私の両肩に手を置いた。
「!」
はじめてあった頃は、私よりも小柄な子供だったはずなのに、こんな近くにいると、私の視線よりも上に、彼の視線があった。この時初めて、私は、彼が、あの頃の子供ではなく、成長し、大人に近づいた事を悟った。
「そうやって、姉御は、芸能界嫌いだなんて言いながら、芸能人になろうとしてる俺の事気遣って、応援してくれているから・・・俺は姉御の事が好きなんですよ。
さっきの話聞いて、俺、前よりももっと、姉御の事好きになりました・・・
ずっと身近に感じました。
話してくれて、ありがとうございます」
そう言われ、逆に戸惑ってしまった私の頬に、彼の唇が、一瞬だけ、触れた。
「!!っ」
一瞬の、不意打ちのような頬へのキスに、返す言葉さえ無くした私に、増沢君は平然と言った。
「姉御・・・
これから、多分俺、忙しくなったて、今までみたいにちょくちょく会ったりできなくなると思うけど・・・
ずっと、姉御の事、気にしてますから。
俺は、姉御の嫌いな世界にいるけど、
俺は、姉御の事、世界で一番尊敬しているし、大好きですから!
何かあったら、絶対メールください!」
それじゃあ、また! 増沢君はそう言って、私に手を振ってわかれた。
私は、彼の背中が見えなくなるまで、彼を見送った。
見送りながら、私は、彼の私への想いも、さっき彼に話した矛盾した想いも、恋愛感情も含めて全て心の奥にしまい込み、厳重に蓋をした。
今まで何度、こうして研究生の背中を送ったんだろう。
私が大嫌いな芸能界に旅立ってゆく子を。
志敗れて研究生を辞める子。
でも、次に増沢君に会うときは・・・きっとデビューして、別世界にいるのだろう。
"芸能界"という、別世界に。私とは違う世界の人になっているのだろう。
旅立ってゆく背中を見送るのはもう慣れたけれど、芸能界へと羽ばたいてゆく子の背中を見送るのは、いつも複雑な気分だ。
あの、兄が研究生になった日の、兄の背中を思い出し、心が締め付けられる。
私は、初めてであった頃よりも、随分大きく、頼りになる増沢君の背中を見つめながら、矛盾に満たされた心のまま、帰ってゆく彼の背中が見えなくなるまで、見送った。
付きまとう悪夢が、再び私に牙をむいたのは、この増沢君と会った日から数日後だった・・・




