第19話
いつも帰る時間よりも明るい時間に地下鉄に乗り、最寄り駅に着いた。最寄り駅の周辺は、ショッピングモールや駅ビルが充実しているけれど、駅から五分も歩くと、私が住むマンションと、その住宅地にたどり着く。電車の便も良いし、住宅地の裏側には国道も走っているので、車の便もよい。
駅に降りて、軽く夕飯の買い物をして、本屋に寄った。この近辺で一番大きい本屋さんで、品揃えもよく、大概の本や文房具はここで手に入る。
今日は、毎週買っている女性総合誌の発売日だし、たしか今月発売のアイドル雑誌では、増沢君達の特集も組まれている。この前私が兄の忘れ物を届けに事務所に行った時、午後から増沢君たちの取材がある・・・と言っていた、その時の記事が出ている筈だ。
女子高生がアイドル雑誌を物色する中、もうすぐ三十路な私が十代向けのアイドル雑誌を買うのは、いつも気がひける。
芸能雑誌を、10代向けのアイドル雑誌一冊だけを買うのも痛い気がするので、
同じ棚にある、舞台の専門雑誌にも手を伸ばした。表紙は、舞台衣装に身を包んだ兄の姿だった。兄の舞台の特集を組んでいるみたいだ。ついでにそれも買う事にした。
そして、別の棚の、毎週買って読んでいる女性総合誌が平積みされているところに行った途端、足が止まった。
雑誌の表紙には、大きく結斗の名前が書かれてあった。今月は結斗の特集らしい。その雑誌を手に取ると、案の定、別冊の袋とじもあり、それは結斗のグラビアのようだ。
「あ、これ!今週結斗の特集だって!」
「本当だ!私買っちゃおうっと!」
「あ、私も!」
数人の女子高生が、平置きされている女性総合誌を持っていった。
そんな女子高生の声をどこか遠くに感じながら、不意に、あの、結斗と過ごした夜が脳裏を過ぎった。
結斗に抱かれた事、あの腕の中で眠った事、同じ朝を迎えた事・・・
日がたつにつれて薄れる、あやふやな記憶の中、フラッシュのように脳裏に焼きつく、結斗の鍛え上げられた身体・・・汗と酒の匂い、体温・・・
そして・・・私の身体を這いずり回る、私とは違う手・・・指先・・・唇・・・
「っひっ!」
鮮明に思いだ開いた瞬間、私は手に持っていた雑誌類を床に落としてしまった。
(やばっ!)
慌てて拾おうとすると、
「大丈夫ですか?」
と、見知らぬ男子高校生が拾うのを手伝ってくれた。
沿線の男子校の制服を着て、眼鏡をかけた、雰囲気の良い子だった。
「あ、ありがとうございます!」
さすがに顔をじろじろと見るのは失礼だし、私だって十代向けのアイドル誌や結斗が特集されている女性総合誌をまとめて落としてしまったのだ。それを男子高校生に拾ってもらうのも恥ずかしい。
高校生から見たら、アイドルオタクのイタいOLみたいに見えるかも知れない・・・
私は彼の顔を見ずに本を拾ったけれど、その男子校生は、チラチラと私を見ていた。その視線が、あのストーカーの視線と一瞬ダブった気がして、鳥肌がたった。
でもその視線は、あの監視するような、刺す視線とは全く違う物だった。もっとこう・・・何かを確かめるような・・・
「どうぞ」
その視線の正体を考えている間、その男子高校生は拾ってくれた雑誌を私に手渡し、私がそれを受け取った瞬間、彼の視線が、雑誌を受け取った私の腕をとらえた。腕を・・・というより、腕についている腕時計を・・・
そして、次の瞬間。
「・・・姉御?」
小さな声で、そう聞いてきた。びっくりした私は、そらしていた視線を、その男子校生に向けた。そこには、相変らず、男子校の制服を着た男の子が、真面目な顔で私を見つめた。
眼鏡と、見たこともない彼の制服姿で全然気づかなかったけれど、よく見ると、眼鏡の奥から見える人懐っこい目には見覚えがありすぎた。
「・・・増沢君?」
「やっぱり!こんにちは!姉御!」
彼の真剣な表情が、いつもの人懐っこい笑顔に変わった。
一方私は、いきなりの事で返す言葉を失った。確かに今は学生さんの下校時刻だし、彼が通う男子校は、この駅から歩いてすぐの所にある。
それにこの界隈は、彼が通っているであろう男子校から一番近い繁華街だ。彼がここにいても全く不思議はない。
「やだ・・・全然気づかなかったよ?」
「だって姉御、全然こっちを見なかったでしょう?
それに俺だって、レッスンの時と同じスタイルで学校にはいかないですよ?
これでも学校では真面目な学生やってるんですから!」
人懐っこい笑顔をしながら、雑誌を拾い終わった彼は立ち上がり、私の腕を取って、立ち上がらせてくれた。
「それに、気づかなかったのはお互い様です。
俺だって姉御に気づかなかったんだから!」
私の腕を掴んで立たせてくれた、その腕につけてある私の腕時計を指差した。
「姉御がこの腕時計、付けてけててくれたから、俺、気づいたんです!
これ、姉御が事務所のバイト辞めるときにみんなでプレゼントしたやつでしょ?」
「たったこれだけで? 気付いたの?」
今の私は教師姿をしている。普段、事務所に行くときや兄に会いに行くときとは全然違うし、気づかないであろう姿だ。付き合いの長い事務所スタッフが私の教師姿を見ても、“隼人の妹”とは気づかないだろう。
それなのに・・・?
そんな私の疑問に、彼はあっさりと答えた。
「この腕時計、姉御が辞めるとき、皆で選んで特注した限定物なんです。
当時の研究生のリーダーとかと一緒に決めたんです。
俺、そん時まだガキだったから、何もしてあげられなかったけど、当時の研究生は、みんな姉御の事大好きでしたからね。
多分、これと全く同じデザインの腕時計してる人、どこも探してもいないと思います」
特注品?そんなの初耳だ。
確かに、ブレスレット状に装飾が施されていて、随所にムーンストーンがさりげなく施されていて、ちょっと見かけないオシャレな腕時計だ。でも、派手すぎず地味すぎず、プライベートでも仕事でもストレスなく身に着けられる絶妙なデザインなので、とても気に入っている。けれど、まさか特注品だとは思わなかった。
しげしげとその腕時計を眺めている私の耳元に、彼はそっと顔を近づけた。
「この腕時計が、俺に、この人は姉御だって、教えてくれたんですよ」
彼はちょっとキザなセリフを言うと、少し照れた顔をした。普段言い慣れない言葉を言ったからか、耳まで真っ赤だ。
「そ、そうじゃなかったら、気付けなかった・・・です」
そんな増沢くんが可愛くて、私も自然と笑顔になって、それに答えた。
「私だって、いつも事務所に行く格好で教師なんて出来ないでしょ?
あの格好で外にいたら、隼人の妹だってすぐばれちゃうじゃない。
でも・・・いつもは正体バレると嫌なんだけど、増沢君にばれるなら、まあ、いっか」
芸能人"新堂隼人"のプロフィールも家族構成も公表されている。だからファンの間では、"新堂隼人には妹がいる"というのは知れ渡っている。でも、それ以上の詮索はされたことはない。でも、私と兄は顔立ちがよく似ているので、隠しても無駄、といった感が強い。
普通の姿で街を歩くと、周囲の人から視線を感じる程だ。
ひそひそと、“あの人、隼人の妹かなぁ?”という無遠慮な声も聞こえてくる程だ。酷いと声をかけられることだってある。けど、大概否定すればその場はしのげる。
でも、こんな風にばれたのが、気心の知れている増沢君だったら、悪い気がしない。むしろ、気づいてくれたのが彼でよかった。
「そう言ってもらえると、正体を見破れて嬉しいですね!」
事務所に行くときは、年相応の流行に沿った服と髪型を選んでいる。今の私の教師スタイルとは対照的だ。
今の私は、伊達メガネと黒いスーツを纏った教師の姿だ。そう言えば、以前、兄に、教師姿の事を"こじらせ系のツンデレOL"と言われたっけ? そう言われると、そう見えない事もないけれど、もっとマシな言い方をしてほしい。
「どうしたんですか?いつもこんな時間に終わるんですか?」
増沢君にそう聞かれて、私は曖昧に笑った。
「ん、今日はね。早く終わったからいろいろ買い物して帰ろうかと思ったの。増沢君は、学校帰り?」
そう聞くと、彼は頷いた。
「今日は、ちょっと服、買いたくて来たんです。その帰りです。今日、俺が出てる雑誌の発売日だったし、ちょっと見に・・・」
増沢君の手には、駅前にあるファッションビルのロゴの入った紙袋があった。結斗とは違う趣味だけれどもお洒落な彼らしい。
そんな彼の目線は、私の顔から、私が持って居るアイドル雑誌へと移っていた。その表紙には、掲載されているアイドルの名前が書かれていて、その中には増沢君の名前も、結構大きな文字で書かれている。
彼がこの雑誌に出るのは初めてではないけれど、出るたびに扱いが大きくなってゆく。デビュー間近だからだ。
「・・・姉御?」
増沢君は、そんなことを考えていた私の顔をじっと見た。
「ちょっと顔色悪いですね」
「・・・うん・・・疲れてて」
曖昧にそう言ったけど、増沢君はいぶかし気に私を見つめた。
「悩んでんですか?」
まっすぐな、素直な目でそんなことを聞かれた。"そんなことないよ!"と言おうとした私の腕を、増沢君は掴んだ。
「え?ちょっと??」
「ちょっとお茶しましょう!
俺も、姉御に話しておきたいことあるし、姉御の話も聞きたいんです!
だって事務所じゃ、周りの奴らが気になって、ゆっくり話もできないでしょ?」
「増沢君?」
「甘いものでも食べながら話しましょ!」
いつもとは違う、増沢君の強引な行動に、私は返す言葉を失った。
「・・・いつもいつも、姉御には助けられてたんですよ!
姉御が辛いときは、その辛さ、少しくらい肩代わりさせてください」
少し真面目な顔で、増沢君はそう言った。
「・・・・・・」
そんなにひどい顔、していたのかなぁ・・・なるべく表に出さないようにしていたのに、今日は職員室の皆にも顔色が悪いと言われたし、隠しきれていない、っていう事だ・・・
抱えている不安が、多すぎる・・
そう思った瞬間、ため込んでいた不安が、涙になって外に溢れ出しそうになった。
「姉御」
「ご、ごめっ・・・・」
堪えようとして、いつも通り、笑おうとしたけれど、一度ゆるみだした涙腺は、元に戻ることもなく、崩壊し続けた・・・
ここが、人の多い大きな書店だ、ということさえも忘れて・・・
「姉御・・・」
彼は、私の背中を優しくさすってくれた。
そして、そのまま私を支えるようにして、書店の隅にあるベンチに私を連れてゆき、座らせてくれた。
「・・・会計、してくるから、ここにいてください」
そう言うと、私が抱える雑誌類を奪うようにとると、そのままレジへと走って行った。
「あ、いいよ、それくらい私が・・・!」
涙声のままそう言ったけど、彼は振り返りもしなかった。
男子高生に、十代向けアイドル雑誌と女性総合週刊誌を買わせるなんて、年上の女としてどうよ・・・後悔したけれど、もう遅かった。
彼は、恥ずかしげもなく、レジにそれを持って行き、会計を済ませて戻ってきた。
「はい」
「ありがとう・・お金・・・」
「そんなの後でいいです」
俯きながら、私はかけているメガネをはずした。壊れた涙腺は修復できず、決壊した。ずっと堪えていた涙が後から後から溢れ出していた。
増沢君は、そんなみっともない姿になった私の隣に座り、じっと私が泣き止むのを、心配そうな、それでも優しい目で見つめていた・・・




