第16話
教室でも職員室でも、いつもの"新堂先生"を演じた。
「はい、じゃ、今日は、先週やったところの小テストしまーす」
週明けの小テストは、私の授業のお約束。生徒はみんなそれを知っているから、私が教室に入ってくるまで教科書とノートを広げている生徒が殆どだった。
「新堂先生、綺麗な顔してニッコリ笑って怖いこと言うよねー」
「うんうん!怒んないけど、しれっと言う“小テスト”って言葉が怖い!」
「この小テストだってさぁ、先週やったところに混ざって、塾の模試に出てた入試対応問題の応用問題が出てくるんだよねー!」
「そう! この前、その問題のせいで満点逃したの! すごい悔しいー
でも、その次の模試の時、似た問題出てきて、そっちは取れたんだ!」
“新堂先生の小テスト”は、私の授業の名物らしい。何せこの小テストの結果も成績考察に入れているのだから。
でも、この小テストのを落とさない子は、大概校内でも成績上位で、大学受験にも出てくる問題も出しているせいか、後々になって生徒に“あの小テスト、すごく役に立ちました!”と言われる。
生徒たちも、時間が過ぎれば、起こった出来事さえも、少し落ち着いて振り返ることが出来る、という事か。
週末のことも然り、時間が過ぎれば、もっと落ち着いて考えることが出来るかも知れない・・・
すべての授業を終わらせ、職員室に戻ると、草野先生がいつもの白衣姿で私の席に近づいてきた。
「新堂先生、ちょっといいですか?」
銀縁の眼鏡の淵が、窓から入る光できらり、と光った。私は一瞬、考えて頷き、草野先生と一緒に職員室を出た。
「ちょうどよかったです。私も、先生にお話ししたいことがあるんです。職員室では話しにくいことなので・・・英語科準備室でもいいですか?」
英語科準備室に呼び出したのは、他のどこよりも、私自身が職員室以外でよく使う場所だから。勝手の解らないところに引き込まれるより、自分のホームグランドで話した方が、話を進めやすいからだ。
「いいですよ」
そんな私の思惑を知ってか知らずか、草野先生はにっこりと頷いた。
英語科準備室に着くと、私は先生にコーヒーを淹れた。英語科に限らず、各教科準備室には、こんな風にコーヒーメーカーがあったり飲み物が飲めたり、そういう家電を置いている。
壁にはぎっしりと英語の本や辞書が並べてある。
古い割に埃っぽさをあまり感じないのは、歴代英語教師が掃除好きで、よくこの本達を愛用しているからで、私1人の力ではない。
草野先生は他愛もない話をコーヒー片手に話してくれた。その表情は笑顔で、それだけで少し安心したし、同時に、これから私が話すことが、申し訳なく思えた。
そして、その雑談が途切れた時だった。
「あの、草野先生」
「ん?」
「先日のお話なんですけど・・・」
そう言った瞬間、草野先生の表情が、少し変わった。私は、草野先生の顔を見ながら、後々に期待を持たせないようにはっきりと言った。
「先生のお気持ちはとても嬉しく思います。
けど、私は草野先生の事は、仕事の仲間とか、同僚としか思えません。
恋愛の対象としてみる事はできませんし、これからもありません。
ですから・・・はっきり、お断りさせていただきます。
申し訳ございません」
そう言って、深々と頭を下げた。
交際を断るのに、ここまではっきりと断るのは女としては気が引けた。
でも、今の私が、付き合うつもりのない相手に、少しの期待も持たせずにバッサリと断るには、これが最良だと思った。
たとえ、草野先生を傷つけることになろうとも・・・そうしてでも守りたいのは、自分自身の、心。
・・・もう、恋愛なんかしたくない・・・
確固たる軸が、私の中にはあった。
そんな意志が、彼にも伝わったのか、彼は少し落胆しながらも、軽く、まるで労わるように笑った。
「俺、随分新堂先生を、追い詰めたみたいだな」
「え?」
そんなことを言われるなんて、意外だった。
「そんな思いつめた顔で断られると・・・俺だって諦めざるを得ないよ」
優しくそう言われ、まるで私の中の張りつめた糸が、少し緩んだ気がした。
「・・・待ってても、いいかな?」
「え?」
この前、告白を受けたときとは打って変わって、随分静かで、緊張感はなかった。
「俺が、勝手に好きでいても、いいかな?
今まで通り」
「それは・・・」
勘弁してほしい。変な期待なんか、持たせたくない。
でも、好きな人がいる、なんて言える立場ではない。だって私の好きな人は、片思いとはいえ芸能人。司さんの名前さえ出すことが出来ない。
結局、私は折れることにした。
「草野先生のお気持ちに応えることはできません。
それでも、ですか?」
私がそう聞くと、先生は静かに頷いた。
「それでも、です。
後悔したくないんです。俺は」
そう言って笑った草野先生の表情は、深く印象的だった。そして、その言葉は私の心を酷く刺激した。
私は・・・司さんに、こんな風に想いを伝えることができるだろうか?
私のことを好きでなくてもいいから、勝手に好きでもいいですか?と・・・。
今の関係さえ壊れるリスクだってあるのに。その方が私にとっては何より恐怖なのに。
草野先生は、今の関係を失ってしまうかもしれない、という恐怖に駆られる事は、ないの?
静かに、穏やかな笑顔で私の返事を待っている彼の顔を見た。そういえば、兄も司さんも結斗も、こんな風に静かに笑う事はない。草野先生が持つ独特な表情に、少しだけ、胸が鳴った。
でも、その高鳴りに、私は背を向けた。
「何も、お返しできませんよ?」
「そんなもの、期待していません。
ただ・・・好きなんです。
俺が見る限り、新堂先生は、ほかの誰を相手にしても、一定の距離を置いているように見えるんです」
「距離・・・」
「そう。距離。
その内側がプライベートゾーンだとしたら・・・新堂先生のプライベートゾーンは、他の人よりもずっと遠くて狭くて、誰も入れない。野間先生や、他の、新堂先生と仲良しな先生方でさえも、入るのを、あなたは拒んでるでょう?」
・・・・草野先生は真面目な顔で、私の顔を見つめながら言った。その言葉に思い当たる節がある。兄の事、私が兄の事務所関係者だという事が他の人にバレたら嫌だから、あまり学校では自分の事は話さない。ほどほどの距離感をたもって人間関係を構築していた。草野先生は、それに気づいていた、という事だ。
図星を突かれて、私は何も言わえずに、その言葉の続きを待った。
「まあ、良く言えばミステリアスですよ。新堂先生は。
でも、俺は、先生の、もっと近くに立って、もっと先生を知りたいと思ったんです・・・好きだから・・・」
「草野・・・先生・・・」
返す言葉を見つけることができないまま、ただ呆然と草野先生の話を聞き続けていた。
「結局、好きなんですよ。どうしようもなく、ね。
貴方に、覚えはないんですか?
他人をどうしようもなく好きになった事は、ないんですか?」
静かにそう聞かれて、私は、司さんの事を思い出した。
子供の頃、初めて会った頃からずっと好きで、好きで・・・でも、彼は知り合いである以上に芸能人で、決して振り向いてくれない存在・・・
諦めきれない想いは、今でも心の中で燻っている・・・
「俺が断られたのは、その人のせいかな?」
「っ!」
心の奥を見透かされているような気がして、私は驚いて草野先生を見た。
「図星?」
「・・・それは・・・」
もしかしたら。
私が司さんを諦めきれなかったように、草野先生も、私の事を・・・好きなの?
自惚れているだけだろうか?でも、一瞬だけ、彼の私への気持ちと、私の司さんへの想いが、リンクしたような気がした。
私は観念して、頷いた。
「ずっと、好きな人がいます。
その人は、誰にでも優しいけど、自分に対しても仕事に対しても、真摯に向き合う、とてもストイックな人です。
私の事なんか、見向きもしない人だけど・・・
彼以外を好きになるのは、今の私にはありえないし、振り向いてもらえる、なんて恐れ多い事、考えてません。
でも・・・
私も、彼みたいに、前向きに、ちゃんと顔をあげて生きていきたいんです」
司さんの名前を出さずに、彼の事を話した。ここまでまっすぐに、私の事を思っている人に、自分の想いを伝えないのは失礼な気がした。
それでも、自分の正体を明かすのは、辞めた。
もしも草野先生に私の正体を話したら、彼の、私に対する想いも変わってしまうだろう。諦める方向に変わってくれればいいんだけれど、そうとも限らないし、ここで自分の正体をカミングアウトする危険性もよく分かっている。
大学時代、彼氏が心変わりしたみたいに。
「わかった。・・・困らせてごめんな」
草野先生は、そう言って話を切り上げた。
「でも、これだけは覚えておいてほしいんだ。
君が、誰を好きでも構わない。俺は、勝手に、新堂先生の事、好きでいます。誰も悪くないし、新堂先生のせいでもない。
だから・・・それを嫌がらないでほしい、負担に思わないで欲しい・・・」
草野先生はそこまで言い切ると、それじゃあ、と言って、英語科準備室を出て行った。
あとに残された私は、ため息をつきながら、机に突っ伏した。
「あーあ・・・」
さっぱり綺麗に断るつもりだったのに、上手く言いくるめられて、現状維持させられてしまった気がする。
こういった交渉術は、彼の方が一枚上手だった、という事か・・・
私も、まだまだだ、という事だ。
「なぁんか、面倒くさいなぁ…」
叶わない心は面倒くさい。
私の、司さんへの想いも含めて・・・




