第15話
週明け。
いつものように起きて、身支度を整えながら・・・服で、結斗のつけたキスマークが隠れるのを念入りにチェックした。
「ん、大丈夫かな?」
地味だけど、相手に不快感を与えない服を整え、髪の毛を結い上げ、メガネをかける。それで、教師、"新堂花奏"が出来上がる。
テーブルに並ぶ、数個の伊達メガネ・・・それは、私が教師でいるときに、必ず着用するものだった。
最悪、これだけで、兄そっくりな自分の顔をカモフラージュできる。
嫌な記憶が、頭をもたげた。
それは、週末の結斗の行為ではない。もちろんそれもあるけれど。
あれがきっかけで、ずっと思い出しもしなかった過去の恋の古傷が、一気に開いたようだった。
心の古傷が、酷く傷む・・・
大学時代・・・
恋人の裏切りに気づき、精神的にズタズタになっていた私。
他人に愛される理由は、"隼人の妹"だからで、それ以外、私は何も持たない存在だと思い知った時。
何も持たない自分自身に絶望した。
兄の七光りに溺れていた事はない。でも、その光で自分自身を見失い続けていたのは確かだった。
兄の存在を、自分の立場をよくするために使うことなどない。そんな事をしたって、立場が良くなることなんかないから。
何も持たない、まるで抜け殻のような自分自身に、絶望した。
事務所の屋上の柵から身を乗り出し、下を眺めた。
事務所ビル屋上は地上10階。飛び降りれば一思いに死ねる。
こんなつまらない抜け殻、なくなってしまえばいい。
あの時は、ショックで、死ぬことしか考えていなかった。
今考えるとばかばかしい。たかが失恋で、自殺しようとしていたのだから。
でも、あの失恋は、私の人格否定もあった。
"本気なわけないだろ? "
"確かに顔はいいよなぁ。スタイルもいいし、だから。最初は遊びだったし、身体目当てだったぜ。でも、疑いもせずに俺のものになったから、最近ちょっと飽きてきた"
"だって花奏って、あの新堂隼人の妹だぜ?
で、花奏だって、今、ポラリスプロダクションでバイトしてるんだぜ!
上手くいけば、ポラリスのモデルとかともお付き合いできるかも知んねーじゃん。
ほら、最近デビューした茉莉香ちゃんもポラリスだしさ。もうちょっと花奏で遊んで、手懐けたら切り出して、茉莉香ちゃん紹介してもらって・・・"
ただの失恋ではなかった。ただの、恋人の裏切りだけではなかった。
私が、隼人の妹ではなかったら、こんなことにはならなかったのだから。
大嫌いだった。
事務所も、
兄も、
芸能界も。
兄そっくりな自分の顔も。
兄が芸能人にならなければ、こんなことにはならなかった。
兄が芸能人のせいで、私が抜け殻のような、何もない存在になってしまったのだ。
こんな空っぽな抜け殻、なくなっても、誰も困らない・・・・
屋上の柵から身を乗り出し、下を見た。
ほんの一瞬、ほんの一瞬、宙に身を乗り出せば、私はこの苦しみから解放される・・・
そうして、身を乗り出し、体が宙に浮くあの感覚を感じた瞬間!!!
「花奏ちゃん!」
聞き覚えのある呼び声が聞こえた。と同時に、背中から私の身体を抑え込む、細いく白い腕。
「いや、離してよ!」
「駄目っ!絶対ダメ!!!」
柵から飛び降りようとした私を、寸前で捕まえたのは・・・茉莉香さんだった。
茉莉香さんは、私より一歳年上で、当時はモデルをしていた。そして・・・兄の恋人だ。
当時から、事務所所属の芸能人の中で、一番仲良しな存在だった。
私の恋は、失恋以上の傷を残して終わった。それなのに!
(お兄ちゃさえいなければこんな思い、しないですんだのにっ!)
(お兄ちゃんのせいで私がこんな思いしてるのに、なんでお兄ちゃんは茉莉花さんと幸せなのよっ!)
やり場のない思いは、兄と茉莉花さんへの逆恨みと醜い嫉妬に姿を変えていた。
「離してよっ! 茉莉花さんなんかに関係ないでしょ!」
「関係なくても! 目の前で大切な友達がこんなことしてるの、見ないふりできるわけないでしょ!」
「茉莉花さんなんかに解んないよ!」
堂々巡りの言い合いは、屋上での掴み合いになっていた。私の自殺を止めようとする茉莉花さんと、その腕を振り払って、逃げるように屋上の柵に手をかけようとする私、そしてその手を掴み、柵から離そうとして、私はさらに彼女の腕を振り払い、ついでに彼女を押し退け・・・
「茉莉香! 花奏ちゃんは?」
後から屋上にたどり着いたのは、千秋さん・・・兄と司さんのマネージャーさんだった。当時、うちの事務所でも数少ない、女性マネージャーだった。
「千秋さんっ、手、貸して!! 花奏ちゃんが」
結局私の自殺は、私とさして年も変わらない女性二人がかりで、邪魔されてしまった。
精神錯乱をおこしていた私は、そのまま病院に運ばれた。
兄にも司さんにも、他の事務所のタレントさんたちにも、私の事は秘密にされた。社長もその時、事務所には不在、兄と司さんは海外での仕事だった。(それを私も知っていたからこそ、自殺の絶好のチャンスだと思ったのだ)
入院中、何度となく近場にあるもので首を吊ろうとしたり、ふらふらと屋外の高いところへと行っては飛び降りようとしていた私は、何日もの間、精神安定剤を投与された。
平常心を取り戻したのは、それからさらに数日後だった。
そして、お見舞いに来てくれた千秋さんと茉莉香さんに、促されるまま、経緯を話した・・・
今までの事、隼人の妹、というだけで受けてきた扱い、そして、今回の裏切り・・・
千秋さんにも茉莉香さんにも、どうすることが出来ない事だった。所詮私の個人的な問題だから・・・
「花奏ちゃん・・・苦しんだんだね・・・」
茉莉花さんは、そう言って私を抱きしめてくれた。それは、久しぶりに感じた、血の通った人の温かさだった。
「隼人のせいで、そんな思い、ずっとしてたの?」
おずおずと、そう聞いてきたのは、千秋さんだった。私はうなづいた。
「これ、アイドルの家族の宿命だと思います。
私、一般人なのに、芸能人やアイドルに関わりすぎたんです。
一般人と、芸能人の間には、きっと、越えられない壁があるんです。私は家族で、兄の近くにいすぎたから気付けなかったけど、一般の人から見たら私はその壁を越えられる存在だし、芸能人から見たら、私は、アイドルを見ても騒がない不思議な一般人なんでしょうし・・・
芸能人から見ても、一般の人から見ても、異端なんでしょうね」
ずっと思っていたこと、感じていたもどかしさややるせなさを、気がついたら思うままに吐き出していた。それは、芸能人をやっている茉莉花さんや、それに携わっている千秋さんにとっては、耳が痛い事だったかもしれないし、納得できない、相容れない、子供の戯言だったかもしれない。
それでも、彼女たちは真剣に私の話を聞いてくれた。そして、私にはない知恵を貸してくれた。
私の退院を待って、千秋さんは、感情を無くした私を車に乗せて、都内を走った。最初は単なる気晴らしドライブだと思っていたけれど・・・違った。
千秋さんは、ブランド服のセレクトショップに連れて行ってくれた。そこは女性モデルや芸能人、スタイリストさん御用達のショップで、私など、名前を知っているだけで足を踏み入れることなど絶対ない場所だった。
そして、店員さんや千秋さんに勧められるまま、何着もの服を試着させられ、その中から数着、厳選してくれた。それは、私が普段大学で着ている服とは正反対の服だったり、違う趣味の服だったりしていた。
その、違う趣味の・・・でも決して下品でも悪趣味でもない服・・・を着せられた私を、今度は茉莉香さんは美容院に連れて行った。そこは、茉莉香さんの行きつけの美容院で、茉莉香さんの知り合いの美容師さんが、私の髪をカットしていった。
今まで、伸ばしっぱなしで最低限の手入れしかしていなかった私の髪を半分ほどに切り、纏めやすくなるようにパーマをかけてくれた。
自分と違う趣味の服、いつもはしない髪型、それと、千秋さんと茉莉花さん直伝の化粧術・・・たったそれだけで、私は、"隼人の妹"とは違う姿になれた。
鏡の前にいた私は、以前の、隼人そっくりな姿とは別人だった。確かに、顔や骨格は兄そっくりだ。でも目元や顔に、自己流ではない、正しい、自然なメークを施し、違う服と、すっきりと結い上げた髪型。それで、今までとは違う自分になれた。
「・・・どう?びっくりした?」
千秋さんと茉莉香さんは、私を鏡の前に立たせて、変身した私の姿を見せてくれた。
「・・・嘘みたい・・・」
前より酷くなったわけではない。むしろ以前よりもきれいになった気がした。その上、隼人の妹ではない、もう一人の自分が、そこにいたのだ。
「はい、これ。仕上げよ」
千秋さんはそう言って、私にメガネを差し出した。
「隼人さんと花奏ちゃんは、目元がすごく似てるの。メークしても、それは隠せない。だから、せめてメガネかければ、ばれにくくなるわ」
恐る恐る、私は千秋さんからもらったメガネをかけてみた。そして、その姿を鏡で見て・・・変身が完了した、と実感した。
完全な別人が、そこにいたのだ。
兄そっくりな、整った可愛い顔立ちはなりを潜め、代わりに、少し大人びた、知的な眼鏡美人がそこにいたのだ。
「外では、この格好でいれば・・・もう、同じ理由で傷つくことはないわ。
いい? 花奏ちゃん?
貴方は、この姿でいるときは、隼人の妹なんかじゃない。
ただの、"新堂花奏"。
そう胸を張って、生きて」
千秋さんにしてみれば。
自分が担当しているタレントの妹が、そのそっくりな容姿故に、自殺までしようとしているのが、耐えられなかったのかもしれない。
茉莉花さんにしてみれば。
モデルとして不遇な時代を生きてきて、事務所にスカウトされてからは、根本的な理由や事情は違うにせよ、容姿が体型に苦しみ続けてきたのだ。
花奏とは事務所に入ってからは親しくしているし、その花奏が、自分と同じように外見が原因で苦しんでいるのが、ほっとけないことだったのかもしれない。
二人のおかげで、私は、もう一つの自分の姿を手に入れることが出来た。
そして。二人がくれた姿と、本来の自分の姿の二つを、うまく使い分け、それぞれに磨きをかけ、生きるのに都合が良いように修正しながら、素顔を人目にさらさずに生きることにした。
そして今・・・
事務所に行くときは、年相応の服を着て、髪を解き、目鼻立ちのはっきりとしたメークをした"隼人の妹"を。
学校で仕事するときは、茉莉香さんと千秋さんがくれた姿。年相応のキャリアウーマン風の"新堂花奏"を。
二つの顔を持って、生きている。
この事実は、兄や結斗、事務所の人たちさえも知らない事だった。
ただ、兄には、"今時な派手な格好で高校教師なんかできるわけないでしょ!"と言って、"教師モード"の私としている。
すべて、すべて・・・自分自身を守るために・・・
テーブルの上には、あの時千秋さんがくれた伊達メガネと、センスの良い銀色の腕時計。それと・・・ムーンストーンのピアス。
腕時計は、就職が決まって事務所のバイトを辞めるとき、増沢君をはじめとした研究生全員がお金を出し合って、餞別としてくれたものだ。ピアスは、その時司さんがくれたもの・・・
私にとってこれらは、今の私の証。宝物だ。
教師でいる間も、事務所にいる間も、"私"でいることを忘れないために。腕時計とピアスは、いつも身に着けていた。眼鏡は、変装用に、教師姿の時は身につけ、プライベートの時も、いつも持ち歩いている。
「さてと。変身完了!」
苦い思い出に浸っていた自分の心を現実に戻すようにそう言うと、私は家を出た。
そして、また、演じ続ける一週間が始まる・・・




