綺麗なままで
頬を両手で温めるようにしながら、軽くマッサージ。
化粧水と乳液で保湿した後、少しでも顔色が良く見えるようにと、丁寧にリキッドファンデーションを伸ばす。パウダーを軽くのせてベースメイク完成。
さすがにつけまつげはやり過ぎのような気がしたので、ファイバー入りマスカラで念入りにまつ毛のボリュームを出してみる。我ながら上出来。
チークはほんのりピンクベージュ系。最後にヴァニティケースの隅に入っていた口紅を手に取る。新しいリップブラシで丁寧に輪郭をなぞり、グロスも重ねた。
いつ、いかなる時も、綺麗でありたいと願うのは女として当然のことかもしれない。
特に、私の母はそういう人だった――。
「どうしてうちにはパパがいないの?」
私が尋ねると、困惑したような表情を浮かべたまま、決まって母はこう答えた。
「美代のパパは、天国にいるから」
弱冠十八歳で私を出産した母は、夜の仕事で生計を立てていた。
華やかな女優のようないでたちで、常に多くの男性に囲まれていた母。
私にはなるべく見せないようにしていたらしいけれど、一緒に生活していたら嫌でもわかる。また男の人と一緒だったんだという、母の艶めいた表情、声、そして匂い。
女としての母は、娘の私から見てもとても魅力的だった。ただし、同じ男の人とは、半年以上続いた事はない。家に男の人を招いた事もない。おそらく、私がいることを隠したまま付き合うには、そうするしかなかったのだろう。私にとっては好都合だったけれど。
母子家庭としては経済的に恵まれた生活が送れたのも、母が女の武器を最大限利用していたからだと、今では理解できる。ただ、小さい頃はいつも母が遠い存在に思えて寂しかった。夜間保育園ではほとんど預けられっぱなしのような状態で、丸三日も顔を合わせないまま過ごすということもしばしば。
迎えに来る母からはいつも「いい子にしてた?」と確認される。私が頷くと満足そうな顔をして「じゃあ、次はもっと早くお迎えに来るからね」と言われた。
それを期待して、いい子であり続けた。ママが早く迎えに来てくれることを期待して、どんなに寂しくても泣かなかった。そんな私を見て、母は誤解してしまったのかも知れない。
「美代はしっかりしているから、大丈夫」だと。
大人になったら、絶対に昼間働く人になろうと心に決めていた。
作業療法士という仕事を選んだのは、母とは違う道を歩むという、密かな反抗心から出たものかも知れない。
今の職場では夜勤も、大勢の人間を一気に相手にすることもなく、安定している。一人ひとりとじっくり関われるこの仕事は、水商売とは正反対だろう。
そして、私がこの仕事を選んだことについて母は何も口出しをせず、学費と生活費をポンと出してくれた。
「これでいつ、私が死んでも大丈夫」と笑って。
大学を卒業してから五年間、脇目も振らず働いていた私に、熱心に声をかけてくる男性が現れた。
彼……魚住さんは、千葉にある大学病院に勤務する作業療法士だった。お父さんが倒れたため、地元であるこの街へ戻って来たのだと言っていた。
三十歳という年齢にしては、患者さんへの対応は落ち着いていて、声のかけ方にも優しさと温かい人柄が伝わって来る。
さすがに大病院でキャリアを積んだ人は違うと、盗み見ては良いところを学んだ。
そんな私の態度が、誤解を招いたのかも知れない。いつの間にか、彼からのストレートな求愛がはじまっていた。
最初は偶然だと思っていたが、よく目が合う。私がこっそり見ていたことに気がついたせいだと考え、できるだけ彼を見ないようにした。
それでもやっぱり、気になって彼を見ると、大抵向こうもこちらを見ている。
視線を感じるたびに、そわそわと落ち着かない気持ちになり、耳まで熱を持つのがわかった。
ある日、彼がご年配の女性の患者さんから質問を受けているのを偶然聞いてしまった時からは、ますますはっきりとこちらに意識を向けられ、困惑した。
「魚住さん、ご結婚はまだ?」
「ええ、残念ながら」
「……ってことは、誰か意中の人がいるのかしらねぇ」
患者さんの背後に立っている魚住さんが、通りかかった私をじっと見ながら
「います。ただ、彼女が僕の事をどう考えているか、それがわからなくて困ってるんです。すぐそばにいるのに、きっかけが掴めないんですよね」
「あら、そうだったの。でもね、こんなに優しい人に想われているって、そのお相手も気づいていないんじゃない?」
「いえ、きっと気づいています。だからこれから、行動を起こしてみるつもりなんです」
彼はその時、私の目を見てきっぱりと言い切った。
『自分の父親が支援を必要としている今、離れていたら一生後悔する』
……そんな風に父親を大事に思うことができる彼と、父親の顔すら知らない私では、うまくいくはずがない。
そう思って、避けていた。
母の生き方をずっと見ていた私には、付き合うことや結婚に対する憧れは皆無だった。ひとりでも生きていける女になるために選んだ道に、男性は必要なかった。むしろ邪魔だ。
ましてや、彼との将来を真剣に考えるとなれば、彼のご両親とも密接に関わることになる。父親と生活したことのない私が、彼のお父さんを『家族の一員として』介護できる自信はなかった。
それから、病院の食堂や喫茶店は一人きりの時は使わず、飲み会もできる限り断った。彼から個人的な話をされる機会を減らして時間稼ぎをすれば、そのうち私のことは諦めるだろうと思っていたのだけれど。
どうしても出席しなければならない忘年会でのこと。一次会の最中にさりげなく抜け出したつもりだった。
「清水さん、やっと追いついた……」
駅構内で地下鉄待ちの列の中、スマホで電子書籍サイトを覗いていた私に、突然声がかけられた。
黒いトレンチコートを着た魚住さんが、肩で息をしながら近づいてくる。
「……どうしたんですか? まだ二次会がありますよね?」
「そういう清水さんだって」
悪戯っぽく笑う彼には、私があえて避けていることなどお見通しだったに違いない。
「私は明日、用事がありますから。魚住さんがいないと、二次会が盛り上がりませんよ。戻った方が……」
「いや、このチャンスを逃したら、清水さんはまた僕を避ける」
私の言葉を遮り、いつもより強めの口調で言われた。やっぱり、気づかれていたんだ。
「でも、私は……」
『一番ホームに、新さっぽろ行きが到着します……』
地下鉄が走る、ひゅんひゅんという音と共にアナウンスが流れ、私の声がかき消されてしまった。
結局、地下鉄駅から私の家まで送ると言い張る彼を振り切ることもできず、並んで座り、駅からの道を二人で歩いた。
シャーベット状だった雪がアスファルトに凍り付いてしまい、でこぼこで歩きにくい。いつもだと五分ほどの道のりが、この日はずっと遅くなった。
「清水さんって、一人暮らし?」
「そうですけれど……」
「あ、大丈夫。いきなり家に上がり込もうなんて考えていないよ。実家も札幌なのに、一人暮らしなのはどうして?」
「職場の近くに住みたかったのと、大学時代から一人暮らしだったので自然に……」
「ふうん。ご両親とか寂しがらない?」
矢継ぎ早に質問されて、しかもあまり答えたくないことばかりだったので、ちょっと困らせてみようと思った。
それでも、彼の顔を見るだけの勇気はなくて、下を向いたまま。
「私には父がいないのです。亡くなったと聞いていますが、本当かどうかもわかりません。母はシングルマザーで、水商売をしながら私を育てました」
さあ、どう出るだろうと彼の言葉を待っていたら、予想外の反応が返ってきた。
「清水さんのお母さんって、一人で立派に稼いで子育てした凄い人なんだね。うちのお袋に爪の垢を煎じて飲ませてやりたいよ。親父に依存して生きてるから」
「え? ……そう、なんですか」
「専業主婦歴三十五年。買い物も、旅行も、ウォーキングも、趣味の社交ダンスもずっと親父と一緒。だから親父が倒れた時から、お袋は自分の趣味も何もかも失ってしまったんだ」
「魚住さんはそれもあって、実家に戻られたのですね」
「まあね。一人っ子だし、いずれは……って思ってたけど、こんな事ならもっと早く戻って、お袋の独立をサポートすべきだったよ。親父が死ぬ前に、お袋の方が死にそうな顔をしてる」
何と言っていいのか、言葉に詰まってしまった。私が彼の反応をうかがっていたはずなのに、いつの間にか彼のペースに嵌っている。
「ねえ清水さん、真面目な話、僕の事どう思う?」
「……どうって、どういう意味ですか?」
彼は立ち止まって、私の正面でこう言った。
「ここでは主に『彼氏にしたいか、遠慮したいか』で考えて欲しいな」
「ずいぶん、ストレートですね」
まさか、二人きりで話し始めてすぐ、こんな話題になるとは思ってもみなかった。
びっくりして隣を歩く彼の顔を見たら、向こうも私を見下ろしながら言った。
「まだるっこしいことをしている時間が勿体ないんだ。あとどの位、親父が生きていられるかわからないし」
暗くてはっきりわからないけれど、その時の彼の表情は、歪んで見えた。
結局、彼の熱意に根負けして……と言いながら、私自身も彼の人柄に惹かれて付き合いはじめた。お互い仕事が忙しいのと、彼のお父さんのこともあり、休日の昼間、ショッピングやドライブへ行く程度のお付き合いだったけれど。
そんな時、珍しく母からメールが届いた。そういえば、最近全然会ってなかったし、一応子どもの事を心配してくれているのだろうかと思ってメールを開いてみると。
『悪いけど、保証人になってくれない?』
母の店の経営が危ういのだろうか。
保証人だけは絶対になるな、と教えた母が、あえて私に保証人になれと言っている。
会って直接話をしなくてはならないと思い、仕事が終わってから店に行くとメールをすると、すぐに返事が届いた。
『実はすぐそばにいる。三○○三号室』
三○○三号室……うちの病院の外科病棟の個室。
胸騒ぎがする。
その日の仕事を終えて、急いで病棟へ向かった。
「忙しいんでしょ? とりあえずこれに印鑑とサインをお願い」
病室に入って、私が声をかけるより先に、母がそう切り出す。手渡されたのは『入院承諾書』だった。サイドテーブルで『保証人』の欄に必要事項を記入しながら尋ねる。
「病名は?」
「何だと思う?」
病院貸し出しのパジャマに身を包み、ほぼすっぴんになっている母の様子をその時はじめて見つめる。
……目が、白目が黄色い。
「……胆管結石、とか?」
「だったらいいけどね」
「違うの? じゃあ……」
言いかけてやめた。手術が必要な、黄疸が出る病気で真っ先に思い浮かんだのが、本当は違う病名だった。
「解るでしょ? 多分あんまり良くない話だと思うけど、家族には説明しないとならないらしいから、一応聞いといて」
こんな話だというのに、母の口調はまるで『帰りに卵と食パンを買ってきて』と言っているのと同じような軽さ。だから私もあえて軽く。
「うん。何か必要なものはない?」
「そうねぇ……友達、かな」
「それは自分で連絡して来てもらえばいいでしょ?」
「あ~、ダメダメ。誰かに聞かれても内緒にしてよ。お店の子達にだけはその『胆管結石』って言っとくわ」
笑いながら頭や首筋を掻いている母の様子を見るにつけ、嫌な予感が胸の中でどんどん膨らむのを感じた。
一週間後、外科のドクターからの告知と、手術の説明を受けた。それを聞く母の様子はやっぱり普段と同じで、ドクターとの話もお店の常連さんと交わす気さくな会話のようだった。
心なしか嬉しそうに手術の説明を聞く母は、ドクターに確認した。
「これで、黄色くなったのが治るんですよね?」
「ええ、黄疸は治りますよ」
「あ~良かった~。よろしくお願いします」
それから手術までの数日間、母は病棟で積極的に動き回り、患者仲間を増やしていった。休憩時間や休みの日に病室へ行くと、いつもベッドが空っぽで、大抵デイルームか喫茶店にいる。
病院の味気ないパジャマの上に真紅のガウンを羽織り、点滴をお供に笑顔を振りまいて歩く母は、あっという間に病棟の人気者になったようだ。母の周りでは、いつも笑い声が響いていた。笑いは免疫力をアップさせるから、と言って、母はとにかくみんなを笑わせた。
母の社交的な性格が羨ましいといつも思っていたが、まさかここでも発揮されるとは。
手術前日、母は私にプレゼントをくれた。ずっしりと重たい紙袋の中に、何が入っているのだろうか。
「ねえ、開けてみて」
楽しげに笑う母に促されて、赤い包装紙をそっと開けた。
入っていたのは、真紅のヴァニティケース。中身も基礎化粧品からつけまつげまで、全て揃っている。
「どうしたの、これ?」
「外出した時に買ったの。ほら、おそろいなんだから。昔はよく母子ペアで歩いたものだけど、さすがにこの歳になるとねぇ」
今でもはっきりと思い出せる。おそろいのワンピースでデパートへ行くと、必ず色々な人から『可愛い』と声をかけられた。さすがに今は恥ずかしくてできない。だいたい、当時の母は今の私よりずっと若かった。それを考えると驚くばかりだけれど。
「私達って似てるでしょ? だからきっと美代にも合うはず。まだ若いんだから、もっとちゃんとお手入れして綺麗にしなきゃダメよ」
母とは反対に、地味でメイクも手抜きな私は、母に会う度に同じことを言われ続けている。私も本当は言い返したい。お母さんだって、自分の歳を考えてよね、とはさすがに怖くて言えないだけだ。
「わかってるってば。お母さんは病院なんだからお化粧しちゃダメだからね」
「残念。せっかく買ったから早く使いたいのにな~」
「退院したら思う存分できるから」
「じゃあ、その時はおそろいメイクで外に出ましょう。約束だからね」
「私もメイクの研究しようかな。つけまなんてしたこともないけど、挑戦してみるよ」
普段、時間がなくて適当なメイクになってしまう自分への戒めも込めて、そう言ってみると。
「ねえ、もしかしたら、彼氏が出来た?」
そう問われて、一瞬動揺した私を母が見逃すはずもなく。
「やっと美代にも春が来たか~。手術が終わったら会わせなさいよ!」
ニヤニヤ笑って、肩を小突かれた。
「どんな人なの? イケメン?」
「……作業療法士仲間。イケメンかどうかは、好みがあるから何とも言えないよ。でもね、優しくていい人であることは確か」
「いっちょまえにノロけちゃって~。会える時が楽しみだわ。それじゃあ、可愛い娘の初めてのお付き合いを応援するために、つけまつげの上手な活用法を仕込んであげる」
結局、ベースメイクから丁寧に指導され、私の顔は『お店での母』そっくりになった。
「ちょっとお母さん!! これじゃあ出勤前のチーママじゃないの!! 外に出る時はもうちょっとナチュラルにするからね」
手術への恐怖心など微塵も感じさせずに、母はずっと笑っていた。
手術室へ行く直前まで、笑っていた――。
「お母さんって、綺麗だよね。似てるって言われてたけれど、私よりずっと美人で、羨ましかったんだから」
母の髪の毛をそっと触ってから、メイクが施され美しく整えられた顔を静かに見つめる。
憧れと、嫉妬と、時に嫌悪と甘え。
色んな感情が複雑に入り乱れて、母と距離を置いた。それでも私は、いつも心のどこかで母を意識し続けた。これから先も、きっとそうだろう。
……気が付くと、窓の外がうっすらと明るくなっていた。ドアをノックする音が響き、少し緊張した声で呼びかけられる。返事をすると、魚住さんがそっと部屋に入ってきた。
「見てください。きっとびっくりしますよ」
彼から何か言葉をかけられる前に、まず見て欲しいと思った。
「……本当に、綺麗だね。今にも目を覚まして笑ってくれそうだ」
「魚住さんは、すっぴんの母しか知りませんものね。ついさっきメイクが終わりました。外科病棟の高崎さんと美香ちゃんが処置してくれて。あとは自分でやりますからって……」
霊安室のテーブルに並んだ新品同様の化粧品とヴァニティケースを見て、魚住さんが尋ねた。
「これは、清水さんの?」
「いいえ、母が自分で用意したんです。私にも同じものをくれて、おそろいにしたくて買ったと言っていました。でも母の本音はいずれこうなることを予想して準備したのでしょうね」
「どこまで知ってたの?」
「根治治療が不可能ということまで。手術も最初、治らないなら受けないつもりだったらしいです。バイパスで黄疸が消えるって解って、やっと了承してくれたのですが……」
術後の経過は順調なように見えた。しかし、弱った身体に全身麻酔の手術はやはり負担が大きく、病気の進行が早まったらしい。
本当にあっという間、だった。
何が何だか訳がわからないじゃないの、と文句のひとつも言いたくなるほど。でも、一番文句を言いたいのは過去の自分に対してだ。
近くに住んでいたのだから、もっと会いに行けば良かった。そうすれば、母の異変にも早く気付いたかも知れないのに……。
この件があって以来、ご両親との同居を希望する魚住さんの気持ちも、理解できるようになった。彼との将来を前向きに考えられるようになったのは、母のおかげであることは間違いない。
「そろそろ、葬儀屋さんが来てくれます。仕事に出られなくてすみませんって、皆さんにお伝えください」
「そんなこと、気にするなよ。……それより、夜はひとりで大丈夫?」
彼はいつも、私を心から気遣ってくれる。でも。
「ひとりじゃないから、大丈夫ですよ」
静かに眠っている母を見ながらそう言ったら、ばつの悪そうな顔をして、魚住さんが頭を掻いた。
彼は本当に優しい人だ。商売柄、他人を見る目は確かな母からもお墨付きをもらえた。
付き合いはじめたばかりの彼を巻き込んでしまったけれど、紹介できたのは良かったと思う。ほんのちょっとだけ、親孝行した気持ちになれた。
「あのさ、君のいない時にこっそり、お母さんから『よろしくお願いします』って言われたんだ。いつもいい子でいるけど、本当はとっても寂しがりやだからって……母親に甘えられなかった分、いっぱい甘やかしてねって」
部屋に漂うひんやりとした空気をスムーズに吸い込めない。視界が揺れて、堪え切れずに嗚咽を漏らす。
胸の奥深くにしまいこんでいた感情が蘇る。本当は気付かれていた私の寂しさと、それに応えてやることができなかった母の気持ち。
私はこの時やっと、母に甘えてすがりついた。
久しぶりの親子水入らずの夜。
綺麗な顔で布団に横たわる母と、同じメイクの私。もちろん、以前教わった時よりはナチュラルメイクで。
「外へ出る時は、母娘おそろいで」
母の願いはおそらく、愛用のコスメで最期のメイクを施してもらうことだった。自分が一番似合うコスメで、自然な美しさのまま。ナースでも葬儀屋さんでもなく、娘の私の手によって。だからあんな言い回しになったのかも知れない。
「お父さんって、本当に天国にいるの?」
もちろん、返事はない。でも。
「そっか。だからちゃんとメイクして欲しかったんだ。きっとお父さん、若くしてあっちに行っちゃったんでしょう。『お前、老けたな』とか『化粧浮いてるぞ』なんて言われたくないもんね」
……大丈夫だから。綺麗なままで行ってらっしゃい。
心の中で呟いて、また穏やかな微笑みを浮かべる母の顔を見つめた。
【完】