結婚式
「サラ。俺と結婚してくれないか」
何を言われているのかわからなくて、私は茫然とした。
「……えっと……」
どうしよう、旦那様が錯乱されている。
──睡眠不足? 睡眠不足かな?
最近は眠れていると言っていたけれど、本当は疲労が溜まっているのかしら? それで血迷ってしまわれたのでは?
「あの……旦那様……?」
正気に戻ってほしいと願って、お顔の前でぱっぱっと手を振ると、ローレンス様はその手を捕まえて唇を寄せた。
「ローレンスと呼んでほしい」
手の甲に落ちたキスは、火傷するほど熱かった。
◇◇◇
まるで「茶をもう一杯くれないか」とでも言うかのような軽さで「結婚してくれないか」と言われた日から、平凡で凡庸な私の毎日はがらりと一変した。
ローレンス様は「すべて俺に任せてくれ」と言い切ったが、その言葉通り、婚約と結婚の話はあっという間に進んだ。
ローレンス様は息つく間もなく私の両親の同意を取りつけたかと思うと、女王陛下のお許しも得た上に、教会で挙式を行う手配まで済ませてきた。
知らない間にうちの実家が負った借金の返済まで終わっていたのだから、驚いたなどという言葉では言い表せない。
早い。本当に早い。仕事ができすぎる。
貴族の娘の結婚は父親の同意があれば成立するし、すでに我が家の借金まで返していただいているのだから、拒むことなどできるはずがない。
恐れ多いとは承知しつつ、私はおそるおそる求婚を受け入れた。
庭師手伝いから急に公爵夫人になることになった私を、ハワードさん《《は》》驚きつつも祝福してくれた。
残念ながら、好意的だったのはハワードさんだけ。
他の使用人さんたちの間から聞こえてきたのは、もっぱら懐疑と不満と不服の声だった。
「"雑草令嬢"が旦那様の妻ですって!?」
「旦那様は何をお考えなのかしら? 釣り合わないにも程があるでしょう?」
「あんな貧乏貴族の娘を入れては、由緒あるアッシュフォード家が汚れるぞ!」
使用人さんたちが難色を示すのも当然だ。
私では公爵家にふさわしくないと、一番思っているのは私自身なのだから。
「奥様がされていた女主人の仕事を、あんな小娘になど任せられないな」
「連れてくる侍女も一人もいないそうだ。本当に貴族とは名ばかりの貧しい家なのだな」
「お里が知れること。なぜそんな木っ端貴族の娘を公爵夫人と仰がなくてはならないのかしら……」
使用人さんたちはもはや声をひそめるでもなく、聞こえよがしに囀っていた。私の耳に入ろうがかまわないのだろう。
声高にささやかれる話の中で知ったのは、ローレンス様にはあちこちから求婚の申し入れが殺到していたという事実。
考えてみれば当然である。私が社交界の噂に疎かった上、庭仕事ばかりしていて何も知らなかっただけだ。
自分がローレンス様に見初められたのかもしれない、などという甘い期待は、この時にはっきりと打ち砕かれた。
――なるほど、そういうことね……。
ショックは受けなかった。むしろ納得した。
私の実家のノース男爵家は地位も権力もなくて、政略結婚としては何の旨味もない。
けれど言いなりにはできるから、形だけの妻にはうってつけだ。高位貴族のご令嬢ならそうもいかないだろう。
――いつかローレンス様が真実の愛に出会う時まで、女避けの役目をまっとうしよう。
そう決意し、やがて挙式の日を迎えた。
王都の中心に立つ大聖堂を貸し切る形で行われた結婚式は、ただただ緊張の連続だった。
私は荘厳な教会に圧倒され、シルクサテンを贅沢に使った純白のドレスに怖じ気づいて、足元さえろくにおぼつかなかったが、ローレンス様は余裕の表情でエスコートしてくれる。
よく晴れた空にひるがえるアッシュフォード家の紋章はとても鮮やかで、正装に身を包んだローレンス様は息が止まるくらい凛々しくて格好よかった。
――か、格好よすぎて直視できない……!
目がつぶれるかと思ったし、窒息しそうになったが、ローレンス様が司祭様に呼ばれて離席したので、ようやく呼吸を再開する。
ふと、参列した貴族たちがひそひそと私の陰口を叩いているのが聞こえてきた。
身の程知らずの田舎娘が当代きっての貴公子をたぶらかした──という悪評は、社交界でもすっかり有名になっているらしい。
「あの草しか生えない貧乏貴族の娘が公爵夫人? いったい何の間違いだ?」
「財産目当てだろう。あの女が体を使って若公爵に迫ったに違いない」
「使えるほどの体ではなさそうだが。純朴そうに見えて、あっちは上手なのかもしれんな」
──あっちってどっちだろう? 私が得意と言えるのは庭仕事くらいだが……。
意味のわからない言葉もあったが、私の存在が不興を買っていることは痛いほどよくわかった。
──私は何と言われてもいいけれど……ローレンス様の評判が下がってしまうのは申し訳ないわ……。
冷ややかな嘲笑が渦巻き、好奇の視線が突き刺さる。
いたたまれなくて、私は思わずうつむいた。
◇◇◇
教会で式を挙げた後は、グランディール公爵邸の庭で、ごく親しい人だけを招いたガーデンパーティーが開かれた。
ハワードさんと一緒にお世話してきた花たちが、まるでこの日のために示し合わせてくれたみたいに一斉に咲き乱れる。
鮮やかなオレンジのマリーゴールド。空に向かって伸びる紫のデルフィニウム、パーゴラに這うピンクのクレマチス。葡萄のような房を輝かせる青いムスカリの花。
ペチュニアはバージンロードのように可憐に、カスミソウは花嫁のべールのように清楚に、大輪の薔薇はブーケのように華やかに庭を満たす。
まさに百花繚乱という言葉がぴったりの景色の中、花霞に包まれてのパーティーはとても盛況だった。
「おいおい、本当に結婚したのかよ。ローレンス!」
ローレンス様は親友だという侯爵令息に、肩を組まれて絡まれていた。
「急に結婚だなんてどういうつもりだ? 可愛らしい花嫁だが、おまえがこういうタイプを選ぶとは思わなかったな……」
侯爵令息は冷やかすように、両手を上げて含み笑った。
「大輪の花ばかり見すぎて、素朴な野の花がめずらしく見えたのか?」
完全に小馬鹿にした口調だったが、失礼だと思うよりも言い得て妙だと思ってしまう。
むしろ「雑草」ではなく「野の花」と言ってくれる侯爵令息を、優しいなと思ったくらいだ。
「よせ、ジェラール」
ローレンス様は侯爵令息を制して、私の肩を抱いた。
「俺にはサラしかいない」
"形だけの妻をこなしてくれるのは"サラしかいない──という意味だということはわかっていたけれど、私を守ろうとしてくれるローレンス様の優しさに、胸がきゅんとときめく。
この方なら、お飾りの妻にもひどい扱いはしないだろうと信じることができた。
と同時に、契約結婚の内容をちゃんと確認しなくてはと改めて思う。
もしも今後ローレンス様に愛する人ができたら、私はいつでも離婚を受け入れるつもりだということ。
もうすでに想う方がいるのかもしれないが、もちろんお二人の邪魔をする気もないということを。
その夜。
夫婦の寝室でローレンスと向かい合った私は『君を愛するつもりはない』の言葉を言われ──なかった。
「やっと二人きりになれた。サラ、愛している」
愛の言葉を告げられ、優しく口付けられ、敷布に縫い止められる。
「えっ……?」
気がついた時にはもうベッドに押し倒されていた。
芯まで溶かすようなキスに、頭が真っ白になる。抵抗の言葉ごと理性を飲み込まれて、体がぐずぐずに蕩けていく。
白い結婚を貫くはずだった初夜。
私はローレンス様に抱かれたのだった。