偉大と高潔、孤独と裏切り
「ジェラール……!」
ローレンス様は険しい表情でにじり寄った。
「俺はともかく、父とサラを手にかけたことは許しがたい」
「かけていないが!?」
ジェラール様は何が何だかわからないという様子で反論した。
そうよね……巻き戻り前はジョナサン様は事故で亡くなったし、私たちも命を落としたけれど、今回は助かったのだもの……。
未遂の犯行について、あたかも成功したことがあるかのように糾弾されて、ジェラール様は困惑にたじろいだが、ローレンス様は一度死んでいるため、目が本気である。
「おまえの父親も、そこの雑草女も殺せてねぇよ! 言わせんな!」
ジェラール様は自棄を起こしたかのように地団太を踏んだ。反射的に拳をにぎりしめ、大上段から振り下ろす。
ローレンス様は即座に体をひねり、拳を肩で受け流すと、あえて自ら間合いに入り込んだ。ジェラール様のふところに飛び込み、掌底をすかさず顎に打ちつける。
砂が舞い、塵が渦を巻く。空気を切り裂いて、鈍い衝撃音が壁に反響した。
「ぐっ……!」
とっさに飛びのいて、わずかに急所を反らしたジェラール様は、苦々しそうに唇を嚙みしめた。
息を浅く詰まらせながらも、膝を振り上げ、脇腹に強烈な一撃を見舞う。
ローレンス様はあえて避けずに、その蹴りを肘で受け止めた。綺麗な顔が歪み、一瞬だけ動きが止まる。
「……俺のせいで……父やサラまで巻き添えにしてしまった……」
無念と後悔がにじむ声で、ローレンス様は言った。
「もう同じ轍は踏まない。二度とおまえに罪は犯させない」
「何言ってんだかわかんねぇよ!」
ジェラール様は感情的にわめき、再び距離を詰めた。
緊迫した空気が流れた。再び拳がぶつかり合い、互いの間に火花が走る。
二人の体格も、膂力も、ほぼ互角。
割って入るどころか、言葉をかけることも、息をすることさえためらわれるような激しさで、二人は撃ち合った。
息が荒く切れ、汗がしたたり落ちる。湿った風が流れ、土ぼこりが散う。
「──っ!」
ジェラール様の打撃の爪先が、ローレンス様の側頭部をかすめた。
額が切れ、赤いものが一すじ流れたのを見て、ジェラール様は口角を上げた。
「いい顔だな。ローレンス」
一瞬の隙が命取りになるほど白熱した渦中にいるというのに、ジェラール様は楽しそうだった。
「今、おまえは俺だけを見ている。俺のことだけを考えている。おまえの中身は俺への殺意でいっぱいだ。父親のことも、雑草女のことも、欠片も思っていない。そうだろう?」
──愛も憎しみも同じなんだよ、とジェラール様は嘯いた。
「俺はおまえに最も敬われる男にも、最も愛される女にもなれない。だが……最も憎まれる存在にはなれる……!」
──相手のことだけが頭を占めているという点では、愛も憎しみも似たようなものだ、とジェラール様は満足そうにささやく。
歪んだ笑顔だった。
憎悪を向けられていることよりも、ローレンス様の心を占領している愉悦の方が上回る、この上なく歪んだ──純粋な笑顔だった。
「……トネリコの花言葉は"偉大"、そして"高潔"……」
ジェラール様は真正面からローレンス様を見据えた。
私も、ハワードさんも、他の誰も眼中にはなかった。ローレンス様だけに照準を合わせて、ジェラール様はささやいた。
「おまえは誰にもまつろわぬ者であれ、ローレンス。……偉大で高潔な、トネリコであれ……!」
まるで愛のような、呪いのような、執着のような──そのどれとも決めつけられない、屈折した感情のにじむ言葉だった。
「…………」
ローレンス様は無言でその視線を受け止め、そっと瞳を閉じた。
続けざまに、ジェラール様の打撃がくり出される。跳躍して躱したローレンス様は、着地とともに片足を一歩、前に踏み込んだ。
鋭い打撃音が打ち鳴らされる。全身の力を込めた拳が、鳩尾に向かって叩きつけられ、突き上げられた。
強烈な一撃を叩きこまれたジェラール様は、ぐっと歯を食いしばった。
一瞬堪えたが、立っていられずにその場に膝をつき、あえなく頽れる。
「……殺れよ、ローレンス」
痛みに蹲りながらも、ジェラール様はローレンス様だけを仰ぎ見た。
「そうすればおまえは俺を忘れられなくなる……」
ジェラール様の悲壮な声に重なって、荒野に咲くヒースの花が見えたような気がした。
ヒースの花言葉は"孤独"、"裏切り"、そして"寂しさ"
ジェラール様は栄達著しいヘザーコート家に生まれ、恵まれた環境で育ちながらも、本当はずっと空しかったのかもしれない。だからこんな凄絶な裏切りに手を染めたのかもしれない。
そして今、ジェラール様はローレンス様に殺されて、その人生に永遠に刻まれたいと望んでいる。
ただの恋や愛よりもよほど忘れがたい、一生焼き付いた烙印のような存在として。
それはどんなにか孤独で──どんなにか寂しい願いだろう。
「ローレンス様!」
私は思わず飛び出した。ローレンス様の背中にぎゅっと抱きつく。
ローレンス様の表情は見えなかったが、抱きしめた体はわずかに震えていた。
「後のことは任せましょう……」
「……そうだな……」
お屋敷の方から、騒ぎを聞き付けた使用人さんたちが次々と走り出てきた。
従僕さんたちがジェラール様を取り押さえ、逃げられないように後ろ手に拘束する。
「……サラ……」
名前を呼ばれて顔を上げると、鈍い灰色に曇った空から、ぽつりと水が降ってきた。
ほんの数滴だったしずくは、すぐに驟雨へと変わる。
天を見上げたローレンス様の頬を、雨が流れていった。




