動機
<ジェラール視点>
俺はジェラール・ヘザーコート。ヘザーコート家の長男だ。
当主である父はエインズリー侯爵とノックス子爵、二つの爵位を有している。
上昇思考の強い父は積極的に人脈を広げ、内閣に携わる重臣とも懇意にし、ヘザーコートの家名をますます高めることに成功していた。
内閣とは議会を構成し、行政を担当する組織だ。この国では近年、"王は君臨すれども統治せず"を規範として、君主の政治への関与を減らし、内閣が国政の責任を負う体制が発達してきた。
俺の父はこの議会にも顔が利くし、内相や外相ら大臣たちとも私的に親しい。
高貴な血統。潤沢な富。人も羨む地位。華々しい名誉と栄光。
恵まれた贅沢な環境と、何不自由ないきらびやかな暮らしは快適で、壮麗で、安泰で、そして……退屈だった。
父が選び抜いた教師陣による教育は高度だったが、俺はどんな科目も特段難しいと感じたことはなかった。挫折や失敗を味わったことがないかわりに、やりがいや達成感を噛みしめた経験もなかった。
贅を極めた美食にも、金に糸目をつけない豪華な生活にも、ヘザーコートの名に惹かれて寄ってくる女たちにもとっくに飽きた。
いつもどこかが満たされなかった。退屈で、手持ち無沙汰で、何もかもがつまらなかった。
俺はぽっかりと空いた虚ろな穴を持てあましながら、埋めようもなく無聊をかこった。
そんなある日のことだった。
父に命じられて、俺は社交界に顔を出した。父は俺の優秀さを誇り、頻繁に公の場に連れ出しては、後継者だと紹介して回っていたのだ。
王国の上流社交界は、限られた特権階級だけに許された別格の世界だ。
この場では俺は「ノックス子爵」と呼ばれている。
跡継ぎの男子として、父の持つ二番目の爵位「ノックス子爵」を儀礼称号として名乗る資格があるからだ。
上っ面だけの会話。あたりさわりのない褒め言葉。何の役にも立たない腹の探りあい。
反吐が出そうなほどつまらない交遊を愛想よく耐え、澱んだ汚い空気に無言で舌打ちをした瞬間。
──世界が色を変えた。
開かれた扉の向こうから、光煕がさしこむ。
灰色に曇った愚鈍な視界が、鮮やかな色彩に塗り変えられていく。
「……!」
颯爽と現れたのは、息を飲むほどの美少年だった。
金よりも銀よりも美しい銅色の髪。極上のエメラルドを象嵌したような緑の眼。神が自ら筆を取って描いたような、完璧な黄金比を描いた容姿。
ローレンス・アッシュフォード。
グランディール公爵家の跡継ぎで、「ラセル侯爵」の儀礼称号で呼ばれるローレンスは、作り物めいた美貌の持ち主だった。
もう子供とは呼べず、まだ大人でもない絶妙な年齢。あどけなさの残る顔立ちは、人生のごく短い期間のほんの一瞬だけに許される、希少で清冽な美しさを体現していた。
女たちにきゃあきゃあと姦しく取り巻かれて、ローレンスは表情を固くしたが、俺が話しかけるとほっとしたように相好を崩した。
その初々しい笑顔に、どうしようもなく心臓を鷲掴まれる。
年齢の近い令息が少ないこともあり、ローレンスの"親友"になるのは難しくなかった。
知れば知るほど、ローレンスはすべてを兼ね備えていた。
権威ある家柄。格式の高い血筋。多種多様な教養。勉学を納め、武芸を嗜み、芸術に造詣が深い。
"親友"の稀有な才覚に、俺は生まれて初めて満たされた。
このくだらない国で唯一、ローレンスだけが俺に充足感を与えてくれた。
一方で、ローレンスの父親であるグランディール公爵ジョナサンは、息子よりもずっと凡庸で陳腐な人間だった。
気さくと言えば聞こえはいいが、ただ気安いだけの浅くて軽薄な中年男。
──ローレンスはあんなに完璧なのに、どうして父親はあんなに平凡なんだ?
俺は心底あきれたが、ローレンスはなぜか父親を敬愛していた。
ローレンスの態度や言葉の端々から、父親への尊敬の念を感じ取った時──無性に怒りが沸騰した。
──美しくて尊大な人間は、美しくて尊大なままでいればいい。
誰かに憧れたり、誰かを愛したり。そんなつまらない感情に支配されるのは似合わない。
尊敬とか恋とか愛とか、ローレンスはそんな俗っぽい愚考にまみれていい存在じゃないんだ。
完璧なローレンスの側に、平凡な人間がいるなどおこがましい。
だから悟った。──切り離してやればいい、と。
あんな能天気な父親よりも、ローレンスの方がよほど当主の座にふさわしい。
金の獅子と銀の一角獣。グランディール公爵位とラセル侯爵位を象徴する紋章は、どれほどローレンスに似合うだろう。
女王陛下から叙任を受け、この国最年少の公爵として就くローレンスを思い浮かべるだけで、かつてないほど胸が踊った。
折よくローレンスの方から、信頼のおける使用人を探していると頼られ、俺は息のかかった配下を馬丁として公爵邸に送り込むことに成功した。
ローレンスが何も知らず俺を信頼していることに、興奮が抑えられない。
俺の狙い通りに、グランディール公爵を乗せた馬車は事故を起こした。──が、公爵は命を取りとめた。
残念だが、機会はまためぐってくる。焦る必要はない。
落ち着いて次のチャンスを見計ろうとした矢先、ローレンスは信じられないことを言い出した。
あろうことか、貧しい木っ端貴族の女と結婚するというのだ。
ノース男爵令嬢だとかいう貧相な小娘は、グランディール公爵の命を救った恩人らしい。
余計な真似をしてくれたばかりか、図々しくもローレンスに取り入った馬鹿女に、これまで感じたことのないほど強い憎悪が湧いた。
──ローレンスは何もわかっていない。
「……凡百な父親も、下等な雑草女も、おまえには似つかわしくないんだ……!」
身の程知らずの汚らわしい雑草を刈り取るべく、俺は再び指示を下した。
◇◇◇
「……やはり……間違いないようだ……」
ローレンス様はため息をついて、しかめた額に手をやった。
「そんな……」
実行犯と思しき馬丁を取り調べ、引き出した自供から浮かび上がってきたのは、ローレンス様のよく知る人物の名前だった。
ジェラール・ヘザーコート様。
長年親しく付き合ってきた、ローレンス様の友人だ。
「俺とて信じたくはない……」
ジェラール様に容疑がかかっているという事実が、ローレンス様を衝撃と悲嘆で揺さぶっていた。
ジェラール様自身は、私たちが庭師のハワードさんを犯人と睨んでいると思っている。思い込んでもらっている、と言うべきか。
──ヘザーコート家の力でハワードさんの素性を調べ上げてほしい。そうローレンス様が頼んだところ、ジェラール様は嬉々として快諾してくれたのだ。
しかしジェラール様に頼るまでもなく、ローレンス様はとっくにハワードさんの出自を把握していた。
そもそも私もローレンス様も、ハワードさんを疑ったことはない。
理由は私たちが一度死んだ、過去の事故にある。
あの時、私はまだ会ったことのなかったオリヴィア様にお目にかかるため、一人で領地へ向かおうとした。
しかし出発の直前に急遽ローレンス様が合流し、二人で一緒に馬車に乗り込んだのだ。
つまり、あの時狙われていたのは私だった。ローレンス様が同乗したのは、犯人にとって予想外だったはずだ。
ハワードさんが犯人で、動機がオークリー家の復讐だったなら、アッシュフォードの血を引いていない私は標的にならない。私が一人になる場面を狙う理由はないのだ。
だから犯人はハワードさんではなく、私は殺したいがローレンス様は殺したくないと思っている人物に違いなかった。
ローレンス様はしかめた額を、辛そうに押さえた。
「……放っておくことはできない。これ以上の罪を重ねる前に止めなくては……」
「はい……」
ジェラール様はローレンス様に歪んだ執着を抱いている。ジョナサン様や私のことは殺したいが、ローレンス様のことは殺したくないはずだ。
私が一人で外出するとなれば、きっともう一度同じ手段を使ってくる。
もしも私の出発は止めないが、ローレンス様の出発は止めようとしたならば──チェックメイトだ。
私たちは手を取り合い、ジェラール様と対峙する覚悟を決めたのだった。




