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毒杯

 ハワードさんは後ずさった


「若奥様……い、いったい何を……?」


 わなわなと狼狽する肩越しに、ハワードさんが長年に渡って世話している庭園が広がっている。


 桜に楓、いちいに菜の花。ざっと見渡すだけでも、馬にとって毒になる草が何種類も見つけられた。


 この庭と馬場とは目と鼻の先だ。人目を避けて厩舎に忍び込み、これらの草を飼い葉桶に混ぜておくなど、ハワードさんには造作もないことだろう。


「若奥様! 誤解です! わしは誓って旦那様を害したりは……!」


「へぇ。害したりはしていない、か──」


 そう鋭く指摘したのは、ジェラール・ヘザーコート様だった。


 ローレンス様の友人であり、エインズリー侯爵家の跡取りでもある令息だ。


「ジェラール様!」


 ジェラール様は私に片目をつぶってみせ、おどけるように両手をあげて肩をすくめた。 


「おかしいな? こちらの若奥サマはただ、おまえの出自を看破しただけなのに……それをグランディール公爵の事故に結びつけるということは、まるで心当たりがあるようだが?」


 ハワードさんはハッとして口を閉ざしたが、もう遅かった。


 ジェラール様は余裕の表情で含み笑う。


「言い逃れようとしても無駄だぜ。もう調べはついている」


 この国では近年、内相──つまり内務大臣の進める施策によって、国民を守るための警察機構という制度が確立しようとしている。


 警察とは治安を維持し、事故に対応し、犯罪を捜査するための国営の団体である。


 ジェラール様のお父様である現エインズリー侯爵は、この内相と親しいのだ。


 侯爵の伝手つてを借りて警察に依頼し、ハワードさんの生い立ちを調べた結果、間違いなくオークリー家の生き残りであるという裏付けを取ることができた。


 ハワードさんはオークリー家の最後の当主の、直系の孫にあたること。


 もしもオークリー家が取り潰されることなく続いていたなら、ハワードさんこそが『ラセル侯爵』の地位を継ぐべき人だったということも。


「──いい時計だな」


 ジェラール様は私が持っていた懐中時計を手に取り、しげしげと観察した。


「オークリー家がその最盛期に作らせた品か。何十年経っても現役とは、さすがは名門貴族だ」


 オークリー家が王家の不興を買い、討ち取られたのは今から五十年近く前のこと。ハワードさんはまだ幼い子供だったはずだ。


 幼かったハワードさんは、居城が敵軍に包囲されて恐怖に震えたかもしれない。当主だった祖父の首が挙げられ、絶望におびえたかもしれない。それまでの裕福な生活をすべて取り上げられ、不安におののいたかもしれない。


「オークリーを征伐したアッシュフォードの子孫に、復讐したかったのか?」


「ち……違……!」


 ジェラール様が切り込み、ハワードさんは力なくかぶりを振った。


 王家の命を受けてオークリー家を討ち、ラセル侯爵の座をもらい受けたのはアッシュフォード家だ。


 ラセルの領地では領主の交代を受けて『古きオークは斬り倒され、新しいトネリコ(アッシュ)が植えられた』という流行り歌さえ流布したという。


 一族の不幸をそのようにはやし立てられて、どんなにか屈辱であったことだろう。 


「本来なら自分がいただくはずの『ラセル侯爵』の名を、ローレンスが名乗っていることが不満だったのか?」


 自分がもう名乗ることは許されない『ラセル侯爵』を、まだ当主でもないローレンス様が儀礼称号として用いている。


 その光景を、ハワードさんはいったいどんな思いで見ていたのだろう。


 自分は平民として土にまみれて働いているのに、一族を滅ぼしたアッシュフォードの人々は今も栄華を享受している。


「それが許せなくて、こんな凶行に手を染めたんだな」


「そ……それは……!」


 ジェラール様の容赦のない追及に、返す言葉もなく黙りこくったハワードさんは、不意に顔を上げた。

 

 近付いてくる長身の人影を見て、その顔が絶望に歪む。


「……わ、若様……」


「残念だ。ハワード」


 心の底から無念そうに言って、ローレンス様もまた苦悶に顔を歪めた。


「……おまえは何十年も我が家に仕えてくれた。それなのになぜ、今になってこのようなことを……」


 ローレンス様の言葉は問いだったが、答えを求めてはいなかった。


 今だからこそだ。ハワードさんも老齢になり、寿命も見えてきた今だからこそ、このまま復讐を遂げずに死ぬことはできなかった。


 魂の奥底に消えずに焼き付いた、オークリー家の怨念。


 時勢に負け、爵位も没収され、貴族階級から労働階級へと落ちぶれた恨みを、晴らさずには死にきれなかった。


 理屈ではない。筋など通っていない。


 ジョナサン様やローレンス様を殺したところで、ハワードさんが貴族の座に返り咲けるわけではないのだから。


 そう承知していても、報復を願う一族郎党の怨讐の声に、ハワードさんは逆らえなかった。


 世が世ならラセル侯爵の地位を冠していた者として、ハワードさんは仇に一矢報いずにはいられなかったのだ。


「父は死ななかった。おまえの罪は未遂で終わった。かと言って……見逃してやることはできない……」


 ローレンス様は苦渋の面持ちで、一杯の盃をさしだした。


「ハワード……おまえの心に少しでも慚愧ざんきがあるのなら……潔く罪を認めてくれ……」


 杯に注がれているのは、ジギタリスの毒。


 ジギタリスは草の全体、特に葉に毒がある。汁にすると猛烈な苦味を持ち、心臓麻痺を起こす劇薬となる。


 つまり、ジギタリスの毒ならば死因を心臓発作として装うことができるのだ。


 当主であるジョナサン様には真実を報告しなくてはならないが、それ以外の人々には、ハワードさんは心臓麻痺で亡くなったと伝えることができる。


 ハワードさんの面目を守り、名誉を汚さないための、ローレンス様の温情だ。


「ハワード。せめて最後は、貴族らしく散れ──」


 毒をあおる薬殺刑は、貴人だけに許された処刑方法だ。斬首刑や絞首刑とは違う、誇り高い死に方であるとされている。


 ハワードさんは生涯の大半を平民として過ごした。貴族として生きていくことは叶わなかった。


 けれど最期だけは貴族として、尊厳を保った死を迎えるのだ。


「若様……!」


 ハワードさんはあきらめたように目を閉じ、白髪の頭をがくりと垂れた。


「……お許しを……! 申し訳ありませんでした……!」


 震える手が杯を押しいただく。


 詫びる言葉と共に、ハワードさんは中身を一気に飲み干した。


 ジギタリスの花言葉は"不誠実"


 主君を裏切ったハワードさんの行動は、不誠実の極みだ。いくら遺恨があろうと決して許される所業ではない。──それでも。


「ハワードさん……!」


 それでも、目の前の光景は余りにも辛すぎた。


 胸を押さえて倒れたハワードさんの姿に、私の目から涙があふれた。


 耐えきれずに駆け寄ろうとした私を、捕まえる手がある。


「……ハワード・グレイは庭仕事の最中、心臓発作を起こして急死した」


 ローレンス様は私を腕の中に閉じ込めて、ハワードさんの遺体が見えないよう優しく抱きしめた。


「……長年に渡り我が家に仕えてくれた……熟練の庭師だった……」


 ハワードさんが手塩にかけて手入れしてきた美しい整形庭園を、ローレンス様は言い尽くせない悲しみをたたえた目で見つめていた。

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