出会い
その日、私とハワードさんは朝早くから庭のベンチの修理をしていた。
朽ちかけていた脚を付け替え、ゆるんでいた釘を締め、ペンキを塗り直して乾かす。
一通りの作業が終わった後、ハワードさんは胸ポケットから懐中時計を取り出した。樫の木と馬の模様が刻まれた、上等なアンティークの銀時計だ。
「おお、もうこんな時間か。サラさんや、そろそろ──」
言いかけたハワードさんはふと視線をあげて、驚いた声を出した。
「これは、旦那様!」
ハワードさんは銀時計の蓋を閉じ、帽子を取って頭を下げた。
「旦那様、お帰りになられたのですね」
「ああ。先ほど戻った」
まっすぐこちらへ歩み寄ってくるのは、新緑と同じ色の双眸をした若い男性だった。
ローレンス・アッシュフォード様。
グランディール公爵家を初めとする三つの爵位を有する、この国で最年少の公爵閣下だ。
「旦那様……?」
──まるで細部まで計算し尽くされた、完璧な庭園みたいな人……。
それが私がローレンス様に抱いた第一印象だった。
艶やかなブロンズブラウンの髪。筋の通った高い鼻。スマートだけれどちゃんと鍛えられた体躯と、しなやかな長い手足。
絶妙なバランスを保った容姿は、あたかも熟練の庭師が精密に作り上げた最高の庭のような、美しい黄金比を体現していた。
「他の庭師は母上についていってしまったのだろう? 一人でよく庭を保ってくれたな、ハワード」
「それが、一人ではなかったのですじゃ」
ローレンス様が労わるように言い、ハワードさんがにこにこと首を振る。私は深々とお辞儀をした。
「はじめまして、旦那様。サラ・ベリーです」
「ベリー……? ではノース男爵家の……?」
うちみたいな木っ端貴族の姓をご存知だなんて、旦那様は博識でいらっしゃるのね。
「貴族の令嬢が庭師をしているのか? もっと負担の少ない仕事の方がよければ、屋敷の中に配置換えさせるが……」
「いえ、私が好きで働かせていただいているんです」
動きやすさを重視した園芸用の作業服は、ドレスよりも肌になじんで着心地がいい。
貴族の令嬢には見えないだろうが、我ながら私にはこの格好が似合っていると思う。
私が胸を張ると、ローレンス様は秀麗な眉目をすがめて首をかしげた。
「……久しぶりに帰ったら、邸内のあちこちに花が飾られていた」
あ、タッジーマッジーのことね。
「君が作ってくれたのか?」
「はい。さしでがましかったでしょうか?」
「いや。癒された」
私がおそるおそる尋ねると、ローレンス様は穏やかにうなずいてくれた。
──ええ、植物には癒されますよね。わかります!
「派手な花を飾るよりもあの方がいい。清々しい香りも好みだ」
「ありがとうございます!」
ローレンス様が素朴なタッジーマッジーに目を留めてくださったことと、香りをお好きだと言ってくださったことに、胸があたたかくなる。
初めてお会いする旦那様がお優しい方でよかった──と私は心からほっとしたのだった。
◇◇◇
この国屈指の大貴族の当主であるローレンス様は、私などには計り知れない重責を担っていた。
一つの家が持つ爵位は一つだけとは限らないからだ。アッシュフォード家はグランディール公爵位とラセル侯爵位とスコット伯爵位、三つの爵位を有している。
名誉も三倍だが、領地三倍。伴う責任はそれ以上だ。
貴族の中には領地経営を人任せにする者も多いが、旦那様はご自分で采配を執っておられるらしい。
若くして複数の爵位を持ち、莫大な財産を相続し、広大な所領を治めるのは、本当に骨の折れる大任だろう。
──本当に、私とは住む世界が違う方だわ……。
多忙なローレンス様だったが、執務の合間を縫って、毎日のように庭に出て来られた。
外の空気を吸いに来ているのだろう。お仕事ばかりでは体が鈍ってしまうものね。お散歩や気分転換は大事だわ。
今日も今日とてローレンス様は私が花や木に水を撒いたり、ハンギングバスケット用の籠を編んだり、スミレとヴィオラの寄せ植えを作っているのをじっと見つめていた。何が面白いのかわからないが、楽しそうに笑んでいる。
「可愛いな」
──ええ。スミレもヴィオラも可愛いですよね。わかります!
優しくつぶやいたローレンス様に共感しつつ、私はふと気になった。
「あの、旦那様。もしかしてよく眠れていないのではありませんか?」
凄腕の庭師たちが総出で作り上げた完全無欠の庭園のようなローレンス様だが、整ったお顔の目元には隠し切れない隈が刻まれていた。
「よかったら、ハーブのお茶はいかがでしょうか?」
「ハーブ?」
「はい。紅茶よりもハーブを使ったお茶の方が、よくお休みになれるかもしれません」
貴族の飲み物と言えば紅茶が定番だが、これは他国との貿易を通して、我が国にもたらされた文化である。
異国の商人によって持ち込まれた紅茶は、宮廷を中心とする上流階級の間で人気を博し、今では王侯貴族の生活に欠かせないものとして愛好されていた。
紅茶はチャノキという葉を原料にして作られている。チャノキはツバキの仲間だが、この国では栽培することができず、もっぱら東方の国からの輸入に頼っている。
貴重な茶葉や高級な砂糖をふんだんに使った紅茶を楽しめるのは、その家の富裕さを示すステータスでもあるのだが……私の実家のように金銭的に余裕のない家にとっては贅沢品だ。
だから草しか生えないノース領では、身近なハーブを摘んでお茶を淹れていた。
たかが草と侮るなかれ。ハーブには様々な薬効がある。
安眠を促したり、軽い頭痛を癒したり、むくみを取ったり、胃もたれを改善したり。
すっかり紅茶に取ってかわられ、廃れかけてしまってはいるが、もともとこの国ではハーブのお茶が日常的に飲まれていたのだ。決して怪しい風習ではない。
ローレンス様もそれはご存知らしく、警戒する様子はなかった。
「ああ、頼む」
私の突然の申し出に嫌な顔をすることもなく、草など卑しいと見下すこともなく、ローレンス様はそう快諾してくれたのだった。