山小屋
遠雷が鳴っていた。
灰色の雲が空を覆いつくし、月も星もひとつ残らず隠している。稲妻が一瞬だけ天を照らしたかと思うと、数秒をおいて轟く音が追いかけた。
丸太を組んで建てられた山小屋も、吹きつける風に寒々しく震えている。
横殴りの雨がひっきりなしに屋根を叩き、窓の玻璃をがたがたと揺らしていたが、小屋の中は思いのほか清潔に保たれていた。
芳しい木の匂いがただよう室内には、休憩用の椅子や、仮眠を取るためのベッドも備えられている。
ローレンス様は私をベッドに降ろして、その場にかがみ込んだ。先ほど躓いた私の足に触れ、怪我がないかを確かめる。
「……捻挫はしていないようだな」
「だ、大丈夫です。見ないでください!」
私は焦って踝を隠した。足首を見られるなんて、淑女として恥ずべきことだ。
ローレンス様は苦笑して、濡れた上着を脱いだ。
内側のシャツにも雨が沁みていて、ローレンス様の引き締まった胸板を透かして張りついている。
艶めくブロンズブラウンの髪から、雫がしたたり落ちる。濡れそぼった髪を無造作にかき上げるローレンス様は、色気が上限に達しているのではと思うほど格好良かった。
「……ローレンス様。あの……先ほどの話ですが……」
無防備に色香を撒き散らす胸筋から目を反らして、私はローレンス様の瞳だけをまっすぐに見上げた。
「もしかして……ローレンス様も……時を……?」
エメラルドグリーンの双眸が瞠く。
「サラ、やはり……君もなのか……?」
私がこくんとうなずくと、ローレンス様は腑に落ちた顔をした。
私たちは並んでベッドに腰を下ろし、お互いの話をすり合わせていった。
ローレンス様の知っている"過去"は、私がかつて体験した時間とまったく同じものだった。
グランディール公爵だったジョナサン様が馬車の事故で亡くなり、ローレンス様が当主の座を継いだこと。
オルブライト公爵家を解雇された私は、グランディール公爵家の庭師手伝いとして、ハワードさんというおじいさんと一緒に働いていたこと。
ローレンス様と私は公爵邸で出会い、ハーブティーを介して親しくなったこと。
結婚式を挙げ、初夜を迎え、オリヴィア様に会うために領地へ向かおうとした私たちは──馬車の転落事故で命を落としたこと。
今思い出しても夢の中のできごとのように思える日々だが、ローレンス様の記憶も私の記憶と同じだった。お互いの話はことごとく一致していて、齟齬は見当たらなかった。
「確かに死んだはずなのに……目が覚めたら二年前に戻っていて困惑した。父が生きていることは本当に嬉しかったが……まさかサラと結婚どころか、まだ出会ってすらいないとは……」
既婚だったはずが独身に戻っていたローレンス様は、もう一回私にプロポーズしようと思ってくれたそうだ。
「どうしてももう一度、サラに会いたかった。以前とは異なる出会い方でもいい。再び出会って、君に求婚したいと思った」
「では……私がお目付け役として参加したパーティーで、ローレンス様が声をかけてきたのは……」
「ああ。パーティーの会場で君を見つけた瞬間、他の誰も目に入らなくなった」
──あの日、壁に完璧に同化していた私にローレンス様が気がついたのは、かつて夫婦だった記憶があったからなのね……。
私が巻き戻ったのは私だけだと思っていたように、ローレンス様もご自分だけが巻き戻ったと──私は何も知らないと思っていたらしい。
「君にとっては初対面でもかまわない。また一から俺を知ってもらえればいいと思った。……それなのに……」
あのパーティーの日、私ははっきりとローレンス様を拒んだ。──あなたと関わる気はありません、と。
『何があっても絶対に……私はあなただけは好きになりません!』
その後日。お母様のオリヴィア様がオルブライト公爵家のお茶会に招待されたと聞き、ローレンス様は自ら迎えに行くと申し出た。
「君はオルブライト公爵家に侍女として仕えている。茶会に顔を出せば、また君と会えると思ったんだ」
誤解があるならば解き、私との距離を縮めたかったとローレンス様は言った。
しかしお茶会の日、私はまたしてもローレンス様の手を振り払った。──ラセル侯爵、離してください。
『私はあなたには近づきません。あなたにだけは……!』
一度ならず二度までもきっぱり拒絶されて、ローレンス様は本気で落ち込んだそうだ。
「……あの時はよく知らない男に言い寄られるのが嫌なのかもしれないと思った。……だが、過去の記憶がありながら拒否していたということは……」
ずーん、と重たい音がしそうなほど肩を落として、ローレンス様はがっくりと項垂れた。
「……サラは……そんなに俺との結婚生活が苦痛だったのか……?」
「ち、違います! そうじゃありません!」
ローレンス様と過ごした日々は、私にとって本当に幸せな時間だった。
今思い出しても心が温もるような、宝物のような記憶。……けれど。
「あんな死に方をしたからか?」
率直な問いが、正鵠を射る。
「……私は……あなたを不幸にしたくないんです……!」
「俺が言ったのか? 不幸だと」
即座に問い返されて、私は絶句した。
ローレンス様はいつだって私に優しかった。
『君を愛するつもりはない』ではなく、君を愛していると言ってくれた。
『お飾りの妻だとわきまえろ』ではなく、俺の妻は可愛いなと笑ってくれた。
『これは形だけの結婚だ』ではなく、俺にはサラしかいないと抱き寄せてくれた。
嘲られたことも、罵られたこともない。疎まれたことも、邪険にされたこともない。結婚して不幸になったと、後悔していると責められたことも一度たりとない。
「……いいえ……」
「だろう?」
ローレンス様は腰を浮かして立ち上がった。私の前に片膝をつき、背をまっすぐに伸ばして片手をさし出す。
「君といる限り、俺は不幸になどならない。たとえどんな最期を遂げたとしても、君と過ごした幸福は少しも色褪せない」
──ローレンス様は不幸じゃなかった……?
ローレンス様の凛とした言葉が、私の心に圧しかかっていた重たい楔を断ち切る。
ずっと私を戒めていた桎梏の鎖が、音もなく崩れて融けていく。
私はローレンス様と不釣り合いだと知っている。公爵夫人など似合わないとわかっている。アッシュフォード家にふさわしくないと承知している。
──でも……不幸をもたらしはしなかったのだろうか。
私はローレンス様を……不幸にはしなかったのだろうか……?
にじんだ視界に、澄んだ緑の光が映る。
この世で一番美しい瞳が私だけを映している。大きな手が眦に浮かぶ涙をそっと拭ってくれる。
この目に、この指に、惹かれていくのを止められない。
ローレンス様に出会わなければ、私はきっと一生、こんな気持ちを知らないままだった。




