変わらぬ心②
山へと連なる道を歩きながら、私はひそかに深呼吸をした。
──ローレンス様と同じ空気……美味しい……!
美しい人には空間の浄化作用まであるのだろうか。ローレンス様が近くにいるだけで、元々きれいな田舎の空気が一段と澄みわたって感じられる。
私が空気を美味しく噛みしめていることなど知るよしもなく、ローレンス様は頬を緩めて、
「ノース男爵と男爵夫人は、本当に誠実で良い方々だな」
と、うちの両親を褒めてくれた。
社交界で抜群の人気を博すローレンス様は、他家の邸宅に招かれる機会も多い。しかしローレンス様が滞在すると、必ずと言っていいほど親は娘をさし出してくるそうだ。
断ってもしつこく紹介されたり、わかりやすく二人きりになるよう仕向けられたり、夜中に令嬢自身が寝室に忍んできたこともあったとか。
「ひゃあ……」
思わず間の抜けた声が出てしまった。そんな大胆なことができるなんて、心臓が強すぎる。
「言っておくが何もしていないぞ。手段を選ばないほど上昇思考の強い人間と関係を持ったら、大変なことになるからな」
「そ、そうですよね……」
ローレンス様は指一本触れずに令嬢を送り返し、親には二度とこんな真似をしないようにと釘を刺したそうだ。
そんな経験が一回や二回ではないと言うのだから、大貴族の御曹司も大変だ。
「だが、君のご両親は君を使って俺に取り入ろうという気がまったくない」
──確かに……と私はうなずいた。
私にさっぱり色気がないせいもあるけれど、お父様にもお母様にも、私を売り込むという発想そのものがないのよね……。
回帰前もそうだった。私がローレンス様に嫁ぐことになった時、両親は玉の輿だと喜ぶよりも、ひたすら驚いて心配していた。
正式に結婚が決まってからも、両親から公爵家の援助を要求するようなセリフは一切出てこなかった。ただ私の幸せだけを願って、送り出してくれたのだ。
「男爵家を盛り立てようと思うなら、公爵家にすり寄った方が得だろうに。君を売るような真似は決してしない。善良で欲のない、本当にいいご両親だ」
「ありがとうございます。ベリー家は代々、堅実だけが取り柄なんです」
「そのようだな。ベリー家は先代領主の副官を務めていたのだろう?」
「そうです。よくご存知ですね」
ノース男爵の地位はかつては別の貴族が有していた。ベリー家のご先祖様は副官として仕え、その貴族を補佐していたそうだ。
貴族の地位は格式や功績を鑑みて、国家元首の判断で与えられるもの。
新たに爵位が設けられることもあれば、所有する家から取り上げて別の家に下賜することもある。
前ノース男爵は権力闘争に敗れ、家は断絶の憂き目に遭った。その後しばらくノース領は領主不在の期間が続いたのだが、代官を任されたベリー家のご先祖様は領地のため民のため、ひたすら真面目に努力したようだ。
ベリー家の人間は代々、堅実さが取り柄。特段秀でた才覚はないが、悪事をたくらむ邪心も持ち合わせていない。
実直な努力のかいあって、ノース領は繁栄……とは言えないけれど、潰れたり破綻したりはしない程度には持ちこたえてきた。
その実績を評価されたのか、それとも他に担い手がいなかったのか、ご先祖様は男爵位を賜り、晴れてノースの領主を務めることになったのだ。
「ベリー家は来歴まで誠実だな。血で血を洗う王侯貴族の中で、これだけ後ろ暗い点のない家はなかなかない」
王侯貴族は国の中枢に近ければ近いほど、血なまぐさい交代劇がつきものだ。
現王朝の開祖にあたる初代国王も、熾烈な政争と内紛の果てに前王朝を斃し、玉座に就いた方である。
「地位などしょせん血で贖うものだ。ラセル侯位もそうだった」
アッシュフォード家が持つ三つの爵位のうち、もっとも新しく授かったのはラセル侯爵位だ。
新しくといってももう五十年ほど前のこと。当時ラセル侯爵の地位にあったのは、オークリー家という貴族だった。
オークリー家は王家の不興を買い、国王の勅命を受けた寵臣の軍によって制圧された。
オークリー家を討ち取った王の寵臣とは──アッシュフォード家。
国王は勝利を喜び、取り潰したオークリー家からラセル侯位と領地を没収して、戦功を挙げたアッシュフォード家に与えた。
元より誉れ高きグランディール公位を預かっていたアッシュフォード家は、ラセル侯位も授かって、さらに並ぶもののない大貴族へと成長していったのだ。
そんなことを話しているうちに、気が付けばすっかり山奥に入り込んでいた。
視界は見渡す限りに緑・緑・緑。
花の香りと草いきれに満ちた空気の中に、にわかに湿気が入り混じった。間髪を入れずに、ぽつり、としずくが肩を叩く。
「雨が……」
ぽつぽつ、と降り始めた雨は、あっという間に篠つくような本降りになった。
ローレンス様は振り返り、私に手をさし出す。
「雨で滑るだろう。手を貸してもかまわないか?」
「い、いいえ! 大丈夫です!」
私はぶんぶん首を振った。思わず後ずさった拍子に、足が濡れた草を踏んづける。
「きゃっ!」
足首がぐねっと曲がり、体が後方に傾いた。地面に倒れる寸前で、ローレンス様の腕に抱き留められる。
「大丈夫か?」
断ったばかりでこのざまとは、我ながら情けない。
私はお礼を言って離れようとしたが、ローレンス様は放さなかった。私の膝裏に片手をさし入れ、軽々と抱き上げる。
「ローレンス様! お、降ろしてください!」
「また転んだらどうする」
ローレンスは私を横抱きにしたまま、雨の中をすたすたと歩き出した。
「俺の頼みで君を付き合わせたのだから、このくらいは当然だ」
恥ずかしくてローレンス様の顔がまともに見られない。
「あ……あの……」
私は熱る胸に手を当てて、おずおずと切り出した。
「……この先の沢の近くに、山小屋があります。その……雨がやむまで、そこに……」
「わかった」
雨はさらに勢いを増した。地面もますます濡れていくが、ローレンス様は少しも足を取られることはなかった。まるで乾いた道を歩いているかのように、泥でぬかるんだ道を難なく進んでいく。
やがて雨にけぶる景色の中に、山小屋の屋根が見えてきた。
「ローレンス様?」
不意に歩を止めたローレンス様の目線を追えば、そこには淡いピンク色をした花の群れ。
すらりと伸びた茎の先には、フリルのようなひらひらとした萼片が房状に連なっている。
密集して咲く花と槍形の葉。色が変わらないことから、別名"永遠の花"とも呼ばれる植物だ。
「これは……」
「スターチスか」
私よりも先に、ローレンス様が花の名前を言い当てた。
「スターチスの花言葉は……"変わらぬ心"に"途絶えぬ記憶"……だったな」
「えっ……?」
どくん、と心臓が今までで一番大きな鼓動を奏でた。
「……どうして、それを……?」
「君が教えてくれたんだ、サラ」
「……私が……?」
私はローレンス様とスターチスの話などしたことはない。今回は。
冷たい風のせいではなく、肌が粟立つ。全身を打つ雨のせいではなく、頭が急速に冷えていく。
"変わらぬ心"と"途絶えぬ記憶"
私の中に、雷撃にも似た光が閃いた。
──私はなぜ自分だけが死に戻ったと思っていたのだろう。




