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現場検証

 何も答えられずに、泣くことしかできなかった日の翌朝。


 まだ心は沈んだままだったが、いつものように体を動かして働けば気もまぎれるだろう。私は厩舎に行って、せっせと馬房の掃除をした。


 汚れた藁を新しい藁と入れ替え、床に水を撒いてモップでゴシゴシと磨く。


「うん。今日も体温は正常そうね」


 馬の体に自分の体をぴたっとくっつけ、発熱していないかを確かめてから、一頭一頭の毛をブラッシングした。


 毛をきれいに保つのは、馬の健康にとってとても大事なことだ。汗やフケが毛の間に詰まってしまったら、皮膚炎を起こしたり、体にカビが生えてしまうこともある。


 私が話しかけながらブラシをかけると、馬も気持ちよさそうにリラックスしてくれた。


 こちらを信頼しきった様子の馬を見ていると、もやもやしていた胸が晴れていくような心地がした。


「あら……?」


 どこからともなく、いちゃいちゃ、という効果音が聞こえてきて、私は馬たちが放牧されている場内に目を向けた。


 ひづめを並べて歩くのは、華麗な芦毛をなびかせた雄々しい牡馬と、土色みたいな栗毛のあか抜けない牝馬。


 牡は公爵家の馬で、牝は我が家の馬だ。


 先日、恋に落ちる瞬間を目撃したあの馬のカップルが、お互いの体を舐めたり甘噛みしたり毛づくろいしたり、べたべたと絡み合っている。


──ま、またいちゃいちゃしてる……!


 二頭は長い首をぴったりと寄せあって、真正面から見るとまるでハートのような形をしている。


 ジョナサン様が快癒し次第、あの白い牡馬の方は公爵家に帰ることになるのだけど……わかっているのかしら? 馬だもの、わかっていないわよね……。


 かわいそうだけれど……でも、いかにもサラブレッドな公爵家のエリート馬と、誇れる血統なんてない平凡なうちの馬は、結ばれることはない運命なのだろう。


 のん気にほわほわとしている牝馬に、つい自分を重ねて、せつない気持ちになった時だった。


「……は……か?」


「……が……ですね……」


 馬場の裏手から誰かの話し声がした。聞き覚えのある声につられて、つい体が動いてしまう。


「ローレンス様?」


 ローレンス様は何やら足元を指さしながら、うちの馬丁さんと話しこんでいた。


「あ……それは……!」


 広げられていたのは、大きな木製の車輪ホイールと、半分に折れたフレーム。


 フレームの上に乗っていたはずのキャビンは上質な漆黒に塗装されていて、ドア下についていたはずのタラップは階段の途中で壊れている。


「あの日の……ジョナサン様が乗っていた馬車……ですか?」


 ジョナサン様が怪我をした事故の当日、川から引き上げた馬車の一部だ。


「ああ。馬車に異常がないかを確かめたかったんだ。頼んで見せてもらっていた」


 ローレンス様は馬車自体に何らかの不良があって事故につながったのではないかと疑い、あの時引き上げを手伝ってくれた馬丁さんたちに話を聞きながら、回収された部品を検分していたらしい。


──そうよね。ローレンス様にとってはお父様が危うく命を落とすところだったのだもの……。


 再発防止のためにも、事故の原因を究明したいと考えるのは当然だろう──と納得する。


 ローレンス様は端正な眉をひそめた。


「しかし……車体に構造的な欠陥はなさそうだな……」


 馬車はあちこち折れたり壊れたり削れたりはしているものの、すべて転落の際の衝撃で受けた傷跡のようだった。事故前からあったと見受けられるような瑕疵かしはない。


 たとえば車輪のホイールは木製だが、地面に接する際の摩耗対策として、外周には鉄輪が取り付けられている。


「もしもここが外れていたら……脱輪してもおかしくはないのだが……」


「異常は……ありませんね」


 鉄輪はしっかりと装着されており、外れた形跡はなかった。


 ホイールの外側のリムも、リムから放射状に伸びる細いスポークも、スポークが集中する中央のコンパートメントも、これと言って不具合はない。


 むしろさすがは公爵家の馬車だと感心するほど、しっかりとした頑丈な作りだ。


「こちらも破損はあるが……事故を誘発したとは考えにくいな……」


 ローレンス様が手に取ったのは、長く突き出た一対のながえと、その先端に固定された横向きのくびき


 車両を牽引するための輓具ばんぐだが、どちらも馬の操縦に支障をきたすほどの異変は見られない。割れたり欠けたりしてはいるが、それは川べりの斜面を落ちたせいだろう。


「車体の欠陥ではなかったか……。馬たちにも特に目立った怪我はなかったようだが……」


「あっ……」


 私は先日、厩舎に連れて行ってほしいと言われて案内した時、ローレンス様が馬たちの体や脚や蹄鉄ていてつを丁寧に観察していたことを思い出した。


──あれは単に馬たちを心配していただけではなく、怪我や外傷によって事故が起きたのかどうかを確認する意図もあったのね……。


「馬たちの屈腱くっけんにも異常はなかったし、筋炎や化膿を起こしている様子もなかった。蹄叉ていさが割れたり腐食したりもしていなかった……」


──そこまでしっかり観察していたなんて……!


 思った以上にローレンス様が真剣に馬を検分していたことを知り、私は迷いつつも口を開いた。


「……ローレンス様。事故現場に行ってみますか?」


 おそるおそる尋ねると、ローレンス様ははっきりとうなずいた。


「ああ。行ってみたい」


 本当はローレンス様と一緒にいるのは気が引ける。誰か他の人に任せたいけれど、うちのお父様とお母様はちょうど出払ってしまっている。


 ケイはジョナサン様と、メイはオリヴィア様と楽しく遊んでいる最中だ。あの二組、ますます仲良くなっていく一方なのよね……。


 それに事故の当日、川に滑落した馬車を目撃し、車内からジョナサン様を助け出したのは私だ。当時の状況を正確に伝える役目は、私が一番適任だろう。


 事故の原因究明と再発防止がかかっているのだ。私にお手伝いできることがあるのなら、少しでもお役に立ちたい。


「あの日、ケイがあわてて駆け込んできたんです。知らない馬が暴れている、と言って──」


 私は私情は捨てて、当時の状況をなるべく詳しく思い起こそうと務めた。


 馬たちが荒々しく地面を踏み鳴らして跛行はこうしていたこと。道を戻った先で、わだちが切れて馬車が滑落していたこと。


 私が実際の現場をたどりながら説明すると、ローレンス様は真摯に耳を傾けてくれた。


「車にも馬にも問題がなかったのなら、路上に何か異変があった可能性がありますよね」


「路上にか……」


 馬は繊細な生き物だ。近年、貴族や商人がこぞって馬車を所有するようになったのに比例して、街中でも事故が多発するようになった。


 たとえば馬どうしの引き具がぶつかっただけで動揺して暴走することもあるし、歩行者と接触して死人が出ることもある。


 だからあの時も馬が驚いて暴れ出した原因が、道路上にあったのかもしれない。


「もう少し、馬車が通った道を探ってみましょうか」


「ああ」


 私たちは目を見合わせて、馬車が来た道を逆にたどっていった。

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