嫌いだと言ってくれ
「ケイ君は本当に朗らかで愛くるしいな。子供らしくて実に癒される。……何しろ私たちの一人息子はなぁ……」
ジョナサン様は腕を組んで目を閉じ、しみじみと語った。
「そう、忘れもしない。あれはローレンスがちょうどケイ君くらいの年齢だった時……」
ジョナサン様の回想によるとローレンス様は幼い頃から、ませ……大人びた早熟な子供だったという。
今のケイと同じ十歳の頃には、ローレンス様は専任の家庭教師陣から多種多様な指導を受け、多忙な日々を送っていたそうだ。
うちのケイなんて毎日野原で草にまみれて遊んでいるのに、大違いだわ……。
学問なら算術に歴史、神学に法学に経営学。芸術なら絵画にダンス、試作に楽器の演奏。運動なら剣術に弓術、乗馬に水練、いざという時のために徒手空拳での護身術も身につける必要がある。もちろん上流階級における膨大なマナーとエチケットも必須だ。
ジョナサン様は遊ぶひまもないほど忙しいスケジュールをこなすローレンス様を心配し、もっと子供らしくのびのび過ごさせてやりたいと願ったらしい。そして、
『ローレンス! 勉強ばかりでは息が詰まるだろう?』
と、輪を二つ用意して遊びに誘った。
『どうだ。久しぶりに父と輪くぐり遊びをしないか?』
ローレンス様は持っていた本を静かに閉じ、深くため息をついた。
『父上は子供ですか?』
見事な一刀両断だったという。
ジョナサン様は両手で顔をおおった。
「……そりゃあ……子供はいつまでも親と遊んではくれないものだとわかってる。わかってはいたが……早すぎないか……?」
もう十年も前のことなのに、まるで昨日のことのように悲しそうに嘆いて、ジョナサン様はしくしくと頬を濡らした。
「あなた、いい加減立ち直ってくださいな」
オリヴィア様が苦笑しながらハンカチをさし出す。
ジョナサン様はぐすぐすと泣きべそをかきながら、ハンカチを受け取って涙を拭いた。
「ごめんなさいね、サラさん。この人は外では頑張って公爵をやっているけれど、家では子供より子供みたいなの」
「い、いいえ……」
私は首を振ったが、内心は大貴族の当主であるジョナサン様が、子煩悩で涙もろいことに驚いていた。
ジョナサン様はケイのこともとても可愛がってくれるし、本当に子供好きで優しい方なのだろう。
「……それなのにどうしてローレンスは、あんなに愛想も可愛げもなく育ったのかしら……」
感情豊かなジョナサン様と、冷静沈着なローレンス様。
親子なのに全然違うのよ──とオリヴィア様は首をかしげた。
「ローレンス様は責任感が強くていらっしゃるのだと思います」
僭越だとは承知しつつ、私は口を挟まずにはいられなかった。
「アッシュフォード家は三つの爵位を有する名家中の名家。ローレンス様はその後継者でいらっしゃるのですから。女王陛下にお仕えする貴顕紳士として自覚を持ち、幼い頃からご自分を厳しく律してこられたのかと」
巻き戻り前のローレンス様が、夢を見る暇もないほど執務に尽力されていたことを私は知っている。
お父様を亡くした悲しみを胸に沈め、それでも己に課された責務を果たそうと、真摯に向き合っていた姿を覚えている。
「誰にでもできることではありません。ローレンス様は本当にご立派な方です」
「だそうだよ、ローレンス」
「よかったわねぇ。サラさんがあなたのことをわかってくれていて」
ジョナサン様とオリヴィア様がにこにこと私の背後に話しかけるので、私は一瞬で凍りついた。
「……ローレンス……様……?」
──いつの間に来ていたの!?
ジョナサン様とオリヴィア様はいそいそと立ち上がった。
「さて、あとは若い者どうし、水入らずということで……」
「ええ。私はメイちゃんと遊んでくるわ。ごゆっくり」
「えっ!? ま、待ってください!」
止めようとするも、お二人はそそくさと出て行ってしまった。
ばたん、と扉が閉まる。ローレンス様と二人で部屋に取り残されて、私は青ざめた。
──どどどうしよう……っ! 絶対に揶揄われる……!
ローレンス様がいることにも気付かずに、ぺらぺらと語ってしまった。
──君は本当は俺が好きなのだな、とか。距離を取ろうとしていたのは素直になれないだけだったのか、とか。余裕の表情で軽口を叩かれるに決まっている。
「……?」
と、思ったのに。いつまで経っても揶揄の言葉が降ってこない。
私はうっすらと片目を開けた。
「……ローレンス様……?」
ローレンス様は余裕の表情などしていなかった。
完璧な左右対称をした顔は紅潮し、長いまつ毛に彩られた二重の目はかすかに潤んでいる。高貴な印象を与える引き締まった口元は手で塞がれて、まるで感情があふれ出すのを必死に抑えているみたいだ。
──もしかして……照れてる……?
声を殺して赤面するローレンス様は、信じられないくらい可愛い。
──そんな可愛い顔はやめて! 目に毒よ!
母性本能をぐさぐさ刺されて、私は盛大にうろたえた。
「……不意打ちだった。君が俺がそんな風に俺を評してくれるとは……」
ローレンス様はブロンズブラウンの髪をくしゃっと掻いた。
「……君に避けられていると思っていた。……互いの家族はすっかり親しくなったのに……俺と君の距離だけは縮まらないから」
「それは……!」
悲劇の結末をくりかえしたくないからだ。ローレンス様の死の運命を回避したいから。
そんなことを言えるはずもなくて、私は下を向いた。
「私は……あなたの前から消えなくてはならないんです……」
「では、嫌いだと言ってくれ」
きっぱりと言われて、私は肩を震わせた。
「君の口からはっきり嫌いだと言われるのなら、二度と近づかないと約束する」
「……!」
ただ「嫌い」と言えばいい。わかっているのに、唇が動いてくれない。
「……き……」
私はローレンス様を嫌いになったことなんてない。
眩しくて、美しい人。離れようとしているのは事実だけど、それは私では釣り合わないからだ。
「……き……ら……」
似合わなくて、ふさわしくなくて、ローレンス様を不幸にしたくなくて遠ざかろうとしているけれど、嫌いだったことは一度もない。
「……もういい」
しなやかな指が、私の顎に優しく触れた。
そっと顔を持ち上げられ、エメラルドグリーンの瞳に射抜かれる。
「嫌われていないと、自惚れてもいいか?」
答えは出なかった。
言葉のかわりに涙がこぼれて、私の頬をぽろぽろとつたった。
「……泣かないでくれ。君が泣くと……どうしていいかわからなくなる……」
困ったように下がる眉さえ愛おしくて、胸がいっぱいに詰まる。
ローレンス様を嫌うなんてできない。忘れるには体が覚えすぎていて、切り捨てるには心が慕いすぎている。
──これ以上、あなたを好きになりたくない……!
決して伝えることはできない想いを抱いて、私は沈黙するほかなかった。




