馬のカップル
ジョナサン様の怪我は治りきっていないので、今すぐの出立は難しい。
馬車の乗り心地は決して快適ではないのだ。もちろん公爵家が所有する高級な馬車なので、商人が使う荷馬車や、庶民が乗り合う幌馬車に比べればましだが、それでも振動は防げない。
舗装されていない道が続けばずっとガタガタと揺れ続けることになるし、途中でぬかるみにはまったり、大きな石に乗り上げて立ち往生することもしばしばある。長時間の移動はジョナサン様の傷に響くだろう。
あと数日間は安静にしようと話し合い、私たち家族は大あわてで掃除にとりかかった。
ジョナサン様の寝ている客室ととなりあった二部屋を大至急、オリヴィア様とローレンス様のために片付けたのだ。
「グランディール公爵。公爵をこんな粗末な部屋にお泊めして申し訳ありません……」
「ノース男爵。もう何日も泊めてもらっているではないか。私は本当にこの家のもてなしに感謝しているのだ」
うちのお父様がしょぼしょぼと頭を下げると、ジョナサン様は晴れやかに笑んだ。
「グランディール公爵夫人。みすぼらしい部屋しかご用意できず、お恥ずかしい限りです……」
「ノース男爵夫人。あなたがたは夫の命の恩人ではありませんか。恥じることなど何もありませんわ」
うちのお母様がしおしおと恥じ入ると、オリヴィア様はたおやかに破願した。
「……ローレ……ラセル侯爵。」
私は最大限に目をそらしながら、整えたばかりの客室にローレンス様を案内した。
「……このような狭くて質素なあばら屋で……誠に恐縮ですが……」
「何の問題もない。君がいるからな」
──なんて!?
とんでもないことを言われた気がして、そらしていた目線を向けると、ローレンス様はさらりと言葉を続けた。
「君がいれば、俺には王宮よりも麗しく輝いて見える」
──だから、なんて!?
聞き間違いではなかった。やっぱりとんでもないことを言っていた。
冗談で私を揶揄っている時さえ、ローレンス様は完璧だった。こんな草しか生えない田舎を背景にしても完全無欠に美しく、頭のてっぺんから足のつま先まで一片の乱れもない。
私がより一層ローレンス様から距離を取ると、まぶしいほど綺麗なエメラルドの視線が追ってきた。
「君はいつも俺を避けるな……」
指摘されて、私はギクッと肩を震わせた。
──はい、避けています。とは言えない。
「そんな……避けてなんかいません……」
私はしどろもどろで首を振る。
ローレンス様はため息をつき、頼みがある、と切り出した。
「厩舎に連れて行ってくれないか?」
「厩舎……ですか?」
「ああ。うちの馬たちが世話になっているだろう。無事を確かめたいんだ」
「はい。わかりました……」
ローレンス様とは極力接触したくないが、厩舎に案内するくらいなら大丈夫だろう。
「避けていない」と言った直後なせいもあって、うまく断ることができずに、私は家の裏手にある馬小屋へと向かった。
公爵家の馬は四頭いたが、一頭は事故の当日に御者さんが乗って帰ったから、預かっているのは三頭だ。三頭とも大柄で毛並みがよく、血統の高貴さを感じさせる。
我が家に元々いる馬たちは見るからに野暮ったいので、混ざっていてもすぐに見分けがついた。
事故の直後、公爵家の馬たちは興奮状態が続いていた。息が荒く発汗もしていて、前脚で地面を搔いたりと落ち着かない様子だった。
食欲も減退していたので、しばらくは主食の麦をお湯でふやかして食べやすくしたり、無理強いしないよう少量の餌を何度も与えたりと工夫したものだ。
幸い今はすっかり回復して、馬場に生えた草をのんびりと食んでいる。
──うちは草が食べ放題だものね。人をもてなすには不十分だけれど、馬には満足してもらえるかもしれないわ。
「おまえたち、無事でよかった……」
ローレンス様は再会した馬の鬣を優しく撫で、脚や蹄に怪我がないかを丁寧に確かめていた。
馬を大事に扱う様子が紳士らしくて、密かに胸がきゅんとする。
──うーん。王子様には白馬が似合うわ……。
「はい。体温も正常そうです」
私は馬の熱を測りながら言った。
馬は人間よりも体温が高い。運動するとさらに上昇するのだが、事故直後の馬たちは昂奮も手伝ってかなりの高熱を発し、呼吸も乱れていた。今は平熱に戻ったようで安心だ。
ちなみに体温測定は馬の健康管理に欠かせないが、特に測定用の道具などはない。馬の体に自分の体をピタッとくっつけて、だいたいの肌感で判断するのだ。ついでに耳を当てて異常音がしないかも聴いておく。
馬と密着する私を見て、ローレンス様は複雑そうにつぶやいた。
「妬けるな……」
──やける? 何が?
日に灼けるってことかしら? 今日は暑いものね。
私がぱたぱたと手で顔を仰ぐと、ローレンス様は苦笑した。
「父だけでなく、馬たちもすっかりこの地が気に入っているようだな。──ほら」
「え?」
いかにもエリートらしくキリッと凛々しい牡馬が近づいていくのは、いかにも田舎娘らしくぽわわんとした栗毛の牝馬。
言うまでもなく前者が公爵家の馬、後者が我が家の馬である。
牡馬は牝馬に頭や鼻をすり寄せ、くんくんと匂いを嗅いだ。
「ちょ……!」
二頭の馬たちは鼻先と鼻先をくっつけて、まるでキスをしているみたいに見える。
牝馬の栗毛は、偶然にも私の髪とそっくりな茶色をしていた。
──あなたまで!? 身分違いの恋を!?
牡馬は牝馬の首すじを甘噛みするようなしぐさをした。二頭はそろってうっとりとした表情を浮かべ、寄り添ってぱっぱかぱっぱか歩き出す。
──カップルが成立する瞬間を見てしまった……!
私が動揺していると、ローレンス様は身をかがめて手を伸ばした。
「動かないでくれ。藁が髪に絡んでいる」
ローレンス様の指がかすっただけで、顔が熱を孕んだように熱くなる。
「取るだけだ。じっとしていてほしい」
腰が砕けるくらい良い声でささやかれて、耳が溶けそうになる。
ローレンス様の手が私の髪をすべり、付着した藁くずを摘んだだけで、体の芯がぞくぞくと痺れる。
「……以前にも……こうして君に触れた男がいるのか?」
──あなたです! あなた!
心の中で叫んでいると、ローレンス様はさらに間合いを詰めてきた。
美麗な顔が近すぎて、心臓が止まりかける。
私はとっさに両手を前に出し、ローレンス様をドンッと突き飛ばした。
「だめです!」
暴力はよくないけれど、これでいいのよ。
なぜローレンス様が私なんかに興味を持つのかわからないけれど、これで終わりだ。
張り手をくらわせるような乱暴で野蛮な女、もう愛想が尽きることだろう。
ローレンス様は押された胸をさすって微笑した。
「いい張り手だった」
──張り手を褒められることある!?
私がいっぱいいっぱいになっていた頃。公爵家の牡馬とうちの牝馬は空気を読まずに、いちゃいちゃとデートを続けていたのだった。




