救助
メイのドレスの背中に紐を通し、バックリボンをきゅっと結んだ時だった。
「姉上! 姉上!」
ばたばたと部屋に駆け込んできたのは私の弟のケイだった。メイの双子の兄だ。
十歳になってますます生意気ざかりになってきたケイだが、いつもは一丁前に減らず口を叩く唇が、今は青ざめて震えている。
「ケイ? どうしたの?」
「あっちで事故があったみたい! 知らない馬があばれているんだ!」
「え……!?」
私はすぐさま立ち上がった。
家を出た瞬間、湿った空気の中に、激しい馬のいななきが響いてくるのが聴こえた。
体格のいい馬が二頭、蹄鉄をけたたましく鳴らしながら跛行している。
馬たちは銜を装着した口を左右に振りながら、荒々しく地面を踏み荒らしていた。
頸環は付いているが、輓具にはつながっていない。橇か車を曳いていたのに、何かの衝撃で外れてしまったのだろうか。
「メイ! お父様を呼んできて! ケイ、馬丁さんにも来てくれるよう頼んでちょうだい!」
領主である父と、うちの数少ない使用人さんへの伝言を妹と弟に頼んで、私は駆け出した。馬を追ったのではない。馬がやって来た方向に向かって走った。
複数の馬──たとえば四頭の馬で馬車を牽引する場合、構造上、内側の馬たちはしっかりと輓具につなぐが、外側の馬たちは軛までつけない場合がある。
あの二頭がその外側の馬たちだとしたら、他の二頭と車体がまだ取り残されている可能性がある。
あたりの地面は、昨夜に降った雨でまだじっとりとぬかるんでいた。領内に流れる川も普段より水位が上がっている。
河川敷に沿ってしばらく走った時、泥濘の上に轍が走っているのを見つけた。
轍は急激に左に折れたかと思うと、不自然に途切れている。川下に目をやって、私ははっと息を飲んだ。
「──っ!」
二頭の馬と傾いた車体が、川に半分浸かっていた。河川敷の傾斜には、馬車がすべり落ちていった形跡がはっきりと残っている。
もともと草と苔ばかりの道が、雨の名残りでさらにすべりやすくなっていたのだろうか。あるいは先ほど逃げていた二頭が手綱を離れた時に、車がバランスを崩したのかもしれない。
「……馬車の……事故……!」
かつての私の死因も、馬車の転落事故だった。
壊れたキャビンや外れたタラップに、あの時の恐怖がまざまざとよみがえる。
しかし今はおびえている暇はない。私はすくむ心を叱咤して、一気に斜面を駆け降りた。
「大丈夫ですか!?」
壊れた御者台の影から、御者らしい男の人がよろよろとふらつきながら立ち上がった。
めまいがするのだろうか、御者さんは片手で頭を押さえながら、反対の手で車体を指さし、「ま……まだ……旦那様が……」と震える声で告げた。
「中に人がいるんですね!?」
私は水をかき分けて車体に近付くと、扉に回された閂を引いて鍵を開けた。
扉は水圧で開きづらくなっていたが、高い位置にあるのと車体が傾いているため、何とか力ずくでこじ開けることができた。
車内には水が溜まり、中年の男性らしき人影が座席にうつ伏せになって倒れていた。
呼んでも返答はなく、身動き一つしてくれない。転落した際の衝撃で気を失ったのだろうか。
水位は私の膝丈ほどだが、人は浅い川でも意外と溺れるものだ。一刻の猶予もならない。
私は男性に声をかけながら、肩を貸して体を引き上げた。
水を吸った衣服はずっしりと重かったが、先ほどの御者さんもやって来て手を貸してくれた。
二人で左右から男性を支えながら、何とか馬車の外にまろび出る。
二人がかりでもとてつもなく重いが、人命がかかっているのだ。雑草魂をふりしぼるしかない。
私たちはよろよろと歩を進め、ようやく男性を岸に引き上げることができた。
「水を飲んでいるなら……吐かせないと……!」
平らな場所に男性を仰向けに寝かせ、口の中に異物がないか確認してから、水を吐きやすいよう顔を横に向ける。
私は膝立ちになった。両手を重ね、男性の胸の真ん中に置く。ひじを伸ばしたまま、真上から強く押した。
手を離さないように、胸が沈むように気を付けながら、何度も何度も胸骨を圧迫する。
「どうか……息をして……っ!」
腕がしびれても手を止めず、一心不乱に押し続けた時だった。
がはっ、と音を立てて、男性の口から水があふれた。
「旦那様!」
息を吹き返した男性に、御者さんがわっとすがりついた。
「ああ、旦那様! よかった! ありがとう……ありがとうございます!」
御者さんに涙ながらに感謝されながら、私もひとまずはホッと胸を撫でおろしたのだった。




