あなただけは好きになりません
グランディール公爵家の後継者。ラセル侯爵の儀礼称号を持つ若き貴公子。
社交界の注目を一身に浴びるローレンス様は、周囲がどれほど騒ごうとも顔色ひとつ変えなかった。
ディナー・ジャケットに黒のベストを合わせた、隙のない着こなし。端正な唇は凛々しく結ばれたまま、まっすぐに伸びた姿勢は少しも崩れない。
「ラセル侯爵様! お会いできて光栄ですわっ!」
令嬢たちがきゃあきゃあと高周波の歓声を奏でながら、ローレンス様の前に人垣を作った。
「まぁ、ラセル侯爵様はパートナーがいらっしゃらないの?」
「では私をパートナーにしてくださいませ!」
「いいえ! 私よ!」
続々とローレンス様のパートナーに名乗りをあげる令嬢たち。放っておかれて呆然とする令息たち。そして会場の隅っこで一人、深く感激する私。
──ローレンス様が生きてる……!
事故に遭った時の悪夢は、今でも私の心の一番奥に苦しく焼きついていた。
あの日、冷たく暗い谷底で。閉じたまま開くことのなかったローレンス様の瞳。血の気を失くして青ざめた顔。髪を濡らして流れた血糊。
すべてが壮絶な絶望だった。
あの光景を忘れたことなど一日もない。辛くて悲しくてたまらなかった。どんなに悔やんでも足りなかった。
──ローレンス様が生きて、目の前にいる。
そのことが泣きたいほど嬉しくて、私は目頭を熱くした。
もう私たちの人生が交わることはないけれど、ローレンス様の無事なお姿を一目見られただけで胸がいっぱいだ。
私が満足して、そっと目元を拭った時だった。
「──失礼」
ローレンス様は群がる令嬢たちをかきわけて、颯爽と歩き出した。
あら? こちらに向かってくるように見えるけれど……まさかね?
何しろ私は壁だ。完全に壁に溶け込んでいると自負している。
──華やかに着飾った令嬢がたくさんいる中で、壁と化した私が声をかけられるなんて、万が一にもあり得ないわ。
「はじめまして、美しいお嬢さん」
とっさに後ろを振り向いたが、壁しかない。
──えっ? 私に話しかけているの?
「わ……私が見えるんですか!?」
幽霊みたいなことを言ってしまった。
ローレンス様は笑みを浮かべて「もちろん見えるが?」とささやく。
「俺はローレンス・アッシュフォードだ。君の名前を聞かせてくれないか?」
「な……名乗るほどの者ではありません」
不審者みたいなことを言ってしまった。
ローレンス様は再び破顔して、手をさしだした。
「俺こそ怪しい者ではない。君の名が知りたいんだ」
男らしくて大きな手と、しなやかな長い指。
この手に抱かれた記憶がよみがえって、かっと顔が熱くなる。
──何を思い出しているの! 私!
「……ご冗談は……やめてください」
私は後ずさったが、それは失敗だった。さらに壁際に追い詰められ、退路を断たれてしまう。
──この状況はどういうこと!?
私たちが夫婦だったのは、時が巻き戻る前のことだ。
私の知るローレンス様はお父様を亡くし、すでにグランディール公爵位を継いでいた。
だが今のローレンス様はラセル侯爵の儀礼称号で呼ばれている。お父様はご存命で、ローレンス様はまだ公爵令息だということだ。
この頃のローレンス様と私に面識はない。すれ違ったことすらない、赤の他人である。
──それなのにどうして、私に接近してくるの?
何と答えたらいいのかわからずに困惑していると、他の令嬢たちがきいっとハンカチを噛んだ。
「なんなの、あの子は!?」
「どうしてラセル侯爵様があんな子に話しかけるの?」
「なんて図々しい! いったいどういうつもりかしら!」
──そんなの私が聞きたいです!
そもそも以前の私はパーティーの場に出たことなどなかった。
巻き戻る前と違ってミラベルお嬢様に気に入っていただけたから……だから未来も変わってしまったの……?
──そう! ミラベルお嬢様よ!
自分の役目を思い出して、私ははっとした。
私はミラベルお嬢様のお目付け役。私に話しかけるということは、お嬢様に用があるということだ。
「ミラベルお嬢様にダンスをお申し込みになるのですね。でしたら──」
「いや。オルブライト公爵令嬢にではなく、君に申し込んでいる」
冷静さをふり絞って言ったのに、ローレンス様はさらっと否定した。
「私は参加者ではありません。社交界にデビューもしていないのですから、お相手はできません」
きっぱりと拒んだつもりだが、ローレンス様は引き下がらなかった。
「では、ダンスでなくともかまわない。君のことを教えてほしい」
「おいおい、ローレンス。何してるんだ?」
あきれた様子で近づいてきたのは、先ほどミラベルお嬢様にダンスを申し込んできた令息だった。なんてお名前だったかしら……?
「その子は見るからにお目付け役だろうが。参加者じゃない令嬢をからかうなんて、おまえも悪趣味だな」
「人聞きの悪いことを言うな。ジェラール」
そうそう、ジェラール様だ。
エインズリー侯爵令息で、儀礼称号はノックス子爵だったわね──と思い出したところで、ふと既視感を覚えた。
──私、この人に会ったことがあるわ。
そう、あれはローレンス様と私の結婚式の日。
『本当に結婚したのかよ! ローレンス!』
公爵邸で開いたささやかなパーティーで、ローレンス様は親友だという侯爵令息に絡まれていた。
『おまえがこういうタイプを選ぶとは思わなかったな……。大輪の花ばかり見すぎて、素朴な野の花がめずらしく見えたのか?』
冷やかすように、両手を上げて笑った侯爵令息。
私を「雑草」ではなく「野の花」と言ってくれた、あの時の侯爵令息がジェラール様だ。
巻き戻ってもやはりお二人は親しいお友達なのね──と思いながら、私はかぶりを振った。
「ノックス子爵のおっしゃる通りですわ。ラセル侯爵、お戯れはやめてください」
「戯れのつもりはない」
ローレンス様ははっきりと答え、続けて尋ねた。
「俺が声をかけては迷惑か? 君にはもう決まった相手がいるのか?」
「そんな人はいません。ですが、あなたと関わる気もありません」
震える手をぎゅっとにぎりこんで、私はローレンス様を見つめた。
「何があっても絶対に……私はあなただけは好きになりません!」
──だって、私は二度とあなたを殺したくない。
あんな悲しい未来を見るくらいなら、もう決してあなたには近づかない──!
私は真剣だったのだが、ジェラール様はぷっと吹き出した。
「おもしれー女だな! ローレンスを振る奴を初めて見たぜ!」
いい気味だ、と楽しそうに笑って、ジェラール様はローレンス様の肩に腕を回した。
「おまえがきっぱり拒絶されるなんて愉快なこともあるもんだな! 気を取り直してパーティーを楽しもうぜ! ローレンス……ん?」
「……」
ジェラール様の陽気な声に、ローレンス様は答えなかった。
金にも似た色を放っていたローレンス様の髪が急速にくすんで、精彩を失っていく。凛としていた表情はしゅんと萎れて、明らかに落ち込んでいる。
──そ、その顔はずるい……!
私が動揺していると、ローレンス様はしょんぼりしたまま目線だけを上げた。
「……っ!」
ローレンス様の上目遣い……!
捨てられた子犬みたいな顔が、控えめに言っても可愛すぎる。
心臓を突き刺されながら、私はその場に棒立ちになるしかできなかったのだった。




