阻止
ローレンス様との結婚を回避するためには、我が家が経済的に自立しなくてはならない。借金なんてもってのほか。
今回の人生では、悪徳商会に騙されないようにしなくっちゃ──!
そう思った瞬間、私ははっとした。
「お母様、お父様はどこですか?」
「大事なお話し中よ」
お母様はさらりと答えたが、私は嫌な予感しかない。
つい先ほどお母様は「お客様にお茶を淹れるから手伝って」と言っていた。つまり今、お父様は来客の対応中ということだ。
「お客様って……まさか……クロウリー商会ですか……?」
「ええ、そうよ。この話がまとまればうちも余裕ができて、領民にもっと楽をさせてあげられるって喜んでいたわ」
お母様がまだ言い終わらないうちに、私は一目散に駆け出した。
背後から「サラ!?」と呼ぶお母様の声が聞こえてきたが、立ち止まってはいられない。
クロウリー商会。忘れたくても忘れられない名前だ。
画期的な新事業を掲げ、甘い誘い文句で高配当を謳い、投資の名目で我が家から大金を巻き上げたクロウリー商会。
うちのお父様をすっかり丸め込んだ商会は、蓋を開ければ真っ黒な悪徳業者だった。
実際には運用の実態すらなく、約束した利益は一度も還元されることがなかった。
うちから搾り取ったお金を持って雲隠れしてしまったクロウリー商会を、どんなに恨んだかわからない。
――もう騙されたりしない! 絶対に契約を阻止しなくては!
廊下を駆け抜けた私は、まっすぐに応接間をめざした。
「……ということで、元本も保証いたします。さらにこれだけの高額な配当金をお約束できるのは今だけの特権――」
「その話、待って!」
ノックもせずに勢いよくドアを開け、部屋に飛び込む。
「ど、どうした? サラ」
お父様はぎょっとして振り向いたが、向かいに座っていた男性は一瞬驚きつつ、余裕の表情で私を見た。
「これは可憐なお嬢さんだ。お目にかかれて光栄です」
商会の代表を名乗る男──クロウリーさんは銀縁の眼鏡を押し上げ、白い歯を見せて笑った。
身につけている服も靴も、わかりやすく高級な品ばかり。以前はこの景気の良さそうな外見に騙されたが、生粋の大貴族であるローレンスを知った今ではずっとチープだと思ってしまう。ぱっと見は目立つけれど、本物の気品に欠けているのだ。
「初めまして、クロウリーさん。いいお話をご紹介くださったそうですね」
「ええ。ノース男爵は実に運がいい。これだけの高利率をお約束できる案件はめったにな──」
「では、財務局の登録証を見せてください」
私はきっぱりと迫った。
投資家に対して金融商品の出資を勧誘できるのは、国営の財務局が公的に認可した事業者だけに限られる。
クロウリー商会はこの基準を満たしていない。以前知った時はもう遅かったけれど、今ならば間に合うはずだ。
「そんなことですか」
クロウリーさんは薄く笑い、
「もちろんうちはれっきとした国の委託機関ですよ。どうぞお確かめください」
と言って、黒い鞄から書類を取り出した。
「ほら、国章もきちんと印字されているでしょう?」
私は書類を手に取って、じっと凝視した。
登録証の上半分には委託を認定する定型文が綴られ、下半分には王家の紋章が鋳られていた。
複雑な意匠を組み合わせた豪華な紋章には、一つ一つの図案に意味がある。
王権神授説を示す王冠のデザイン。中央に描かれた盾の色と模様。盾を支える聖獣たち。
私は穴が空くほどまじまじと見つめたが、紋章は細部に至るまで正確で、瑕疵は見当たらなかった。
「どうです? 間違いないでしょう?」
クロウリーさんは余裕たっぷりに鼻で笑ったが、私は首を振った。
「描かれた紋章は確かに王家のもの。ですが、インクが違います」
「は?」
一般的に流通しているインクは没食子を使って作られている。没食子とは樫や楢の木の枝にできる虫瘤のことだ。
この登録証に使用されているのも没食子を用いた黒インク。それは問題ない。
だが、輝きが違う。
「本当に王家が正式に発行した書類であれば、紋章はもっとまぶしく輝いているはずです」
本物の国章には、金粉を混ぜたインクが用いられるのだ。
この登録証もキラキラとした粒子が混じっているから、おそらく安価な金属粉などを使ったのだろう。偽物とはいえ光沢はあるから、単独で見た時に判別は難しい。
しかし私は本物を見たことがある。それもつい最近だ。
ローレンス様が私との結婚を王家に申請した際、女王陛下から賜った結婚許可証で、この国章はもっと燦然と光り輝いていた。
「い、言いがかりだ!」
クロウリーさんは狼狽しながら立ち上がった。
「小娘の鑑定などあてになるものか! これは紛れもなく王家の承認を受けた本物の書類で――」
「では、出るところに出ましょう」
「はぁ!?」
「クロウリーさんが何ら良心に恥じることがないとおっしゃるのなら、堂々と正式な鑑定を受けましょう。でも――」
私はクロウリーさんを真っ向から見返した。
「もしも公文書偽造の罪が発覚したなら……ただで済まないのはあなたの方ですよ?」
かつての十六歳の私だったら、年上の男性に向かってこんなに強気には出られなかっただろう。
しかしこの人にまんまと騙されたせいで実家が困窮し、借金の返済に追われて働いていた記憶があるだけに、ここで退くことはできない。
「くっ……」
クロウリーさんは悔しそうに歯噛みすると、
「後悔するなよ! 雑草貴族が!」
と吠え、鞄をひったくって部屋を出ていった。
「ど……どういうことだ……?」
お父様は狐につままれたようにぽかんとしている。
「お父様。領民のためにもこの地を豊かにしたいお気持ちはよくわかります。ですがうまい話には裏があります、やすやすと乗ってはいけません」
私は懸命に訴えた。
「もしもクロウリー商会にお金を持ち逃げされていたら、うちは借金で首が回らなくなり、利息だけがふくらみ、財政は破綻し、ケイとメイの将来も危ぶまれ……」
私がとうとうと語ると、お父様は冷や汗を流した。
「や、やけに具体的だな……。まるで見てきたかのようだ……」
──ええ、見てきましたから。
全部、実際に体験したことですから、具体的にもなりますわ。
私が大きくうなずくと、お父様はしおしおと肩を落とした。
「……すまない、サラ。まさか詐欺だったとは……」
うちのお父様は貴族の当主というよりも、下町の亭主といった形容がよく似合う人だ。
人を疑うことを知らなくてお人好しなのは、お父様の長所でもあるのよね。
「契約成立前でよかったです。お父様」
しょぼんとするお父様を慰めながら、私は心からほっとした。
「とはいえ、我が家の財政が心もとないことには変わりない。他の手を考えなくては……」
「大丈夫です。私が働いて稼いできますから!」
「おまえが? 働く!?」
「はい!」
そのためにも考えがある。私は服の袖をまくって、可愛い弟と妹に呼びかけた。
「ケイ、メイ、お庭の草を摘みたいの。手伝ってくれる?」




