その扉を開けたのは
扉が開かれる音がした。
目を覚ますと、私は椅子に座っていた。
私の他には誰もいない。この部屋には、私と、向かい合うよう置かれた二つの椅子しか存在していない。私はその一つに座り、もう一つは空席のままだ。
硬い椅子で、なかなか落ち着くことができなかった。座り直してを繰り返し、私は少しでも安定を求めた。
頭をぐるりと回しながら、この部屋を注意深く見る。扉が開かれる音がしたはずなのに、この部屋には扉がない。いったいどこで音が鳴ったのだろう。
私はなぜこの場所にいるのだろうか。頭の中に浮かぶのは繋がりを持たない言葉ばかりで、バラバラとそれらが動き回って気持ち悪い。
そのとき、薄く曇っていた視界に突然黒い線が現れる。真正面の白い壁にスーッと扉の輪郭が現れ始めた。
開かれたその扉から姿を現し、空席に向かって歩いてくる者が一人。
どんな顔をして、どんな服を着て、どんな目で私を見ているのかはわからない。
途端、扉の輪郭は壁と同化を始め、消える。
空の椅子が引かれたときに生まれた音が、独立していた言葉たちを繋ぎ合わせていく。
「今日はどんな物語を広げて下さるのですか?」
その者の言葉に、私の頭の中を真っ直ぐに一つの文章が歩き出した。
そうだ。
私は、
私は、この世界で扉が開かれるのを待っていたのだ。
「さあ、話してください。どんな物語でもいいんですよ。その物語が、美しくても、泥臭くても、怖くても、血が流れても、涙が落ちても、笑みがこぼれても、途方もなくても……、なんだっていいんです。扉を開けたのは私たちですから」
向かいの席に座ったその者は、鮮明になった私の視界でもどんな人物なのかわからないままだ。
その者の目がどんな形で、どんな色をしているのかなんてわからない。けれどそんなことはもうどうでも良いのだ。
その者が行進を望む"目"をしていることは感じ取ることができたんだから。
ここまで来てくれたのだ。少なくとも、その者が最後まで席を離れないことを祈ろう。
私は、彼らが扉を開いてくれない限り姿を現すことができない。この世界に登場することができないのだ。
私の口が柔らかさを取り戻し、私はその者に向かって物語を広げ始めた。
私は、自分の役割を思い出した。
「ある少女が、いつも遊んでいる公園でとある老人に出会った。その老人は少女に突然こう言った。
『もし君の目の前に、決して枯れることのない花があったらどうする? 摘んでも決して枯れない花だ。踏まれても、雨に打たれても、強風に吹かれても、恐ろしく燃える太陽の光に当てられても、決して傷つかない花だ。摘んだら君の好きなようにその花を飾れる。花瓶に挿したり、深さのある額縁に入れて壁に飾ったりできる。その花の居場所を決めるのは君になる。もちろんそうしないこともできる。摘むことなく、その場所でずっと咲かせておくこともできる。君ならどうする?』
少女は青い空を少しの間見つめて、老人の問いにこう答えた。
『私ならその花を摘んで、栞にしたいわ。色んな本に挟んであげたいの』
老人はその答えに何も言わなかった。何も言わず、少女に微笑みかけるだけだった。
数日後、少女はまたその老人に会った。その老人は一輪の花と一冊の本を持っていた。そして、それらを少女に渡した。その一輪の花はとても美しかった。その花は決して傷つくことなく、決して枯れなかった。彼女の周りにいたすべての人間がその花を知っていた。いま、その一輪の花は彼女の墓の前に供えられている。しかし、老人が少女に渡したその一冊の本については誰も知ることがなかった。彼女の親も、友人も、彼女の夫も、彼女の子も知ることはなかった。いま、その一冊の本がどこにあるのかはわからない」
視界の隅にさっきと同じ黒い線が見えた。消えたはずの扉の輪郭が、白い壁に描かれていく。
「結末が近いようですね」
その者は無機質な声でそう言うと立ち上がり、私に背を向け扉の方へと歩いていった。
呼び止めるように、私は結末を告げる。
「物語の最後は、この一文で締められている。
『決して枯れることのない花が、咲き続けなければならない本を枯らした』と」
その者はもうすでに開かれているその扉の向こうへと行ってしまった。
先ほどまであった扉の輪郭は、またも壁に溶け込むように消えた。
一人になった私は、少しの時間、決して知ることができないことについて考えていた。
その者は、私が語り終えたときどんな顔をしていたのだろう。何を思ったのだろう。もう一度、ここの扉を開けるだろうか。
あの者は、無数に広がる物語のどの扉を開くのだろう。
私はここにいる。
今日扉を開いた者がいるように、きっと別の誰かが扉を開く。
私は、またこの場所で扉が開かれるのを待つのだ。
この小説を読む者たちが開く扉を。