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第三章 飢餓キメラ

道格が粘稠な血溜まりを踏みしめ硝子基盤から降り立つ。実験室全体が驚いた鳥の群れのように悲鳴を反響させ、天蓋を旋回する音が響く。四散する人々を見下ろしながら、彼の神経を灼くのは怒りではなく空腹──生まれて初めて知る飢餓の感覚だった。


右腕の狂獅子ネメアが人腿の骨を「ガリッ!」と噛み砕き、左腕の眠犀デュラーが内臓を凍結させる音が交互に鳴る。残酷な光景が彼の喉を「ゴクリ」と鳴らせ、顎から透明な唾液が「タラーリ」と垂れた。


前方に崩れ落ちた女性研究員。白い白衣の股間部分が青緑色の液体に染まり、痙攣するように震える脚が床を叩く。「こ、来ないで……ッ!」


「何故……こんなに」


道格が蹲ると、女の鎖骨に鼻先を押し付けた。尿臭や香水とは異なる甘美な芳香──ヒトフェロモンが通常値の327倍を記録している。


「家族が……2歳の息子が!」


30歳前後の整った顔立ち。かつての寵姫たちと比べれば雲泥の差だが、今や彼の視神経が女の頸動脈の拍動を「トクトク」と捉えていた。右手の眠犀が氷晶を生成する「キリリ」という音と共に、狂獅子はまだ人骨を咀嚼していた。


女が道格に「本当に香りが良い」と言われた瞬間、彼女の眼差しはさらに恐怖と絶望に染まった。眼前の男の目は血走り、大量の唾液が滝のように口から「タラーリ、タラーリ」と流れ落ちていた。これは最早人間の面相ではなく、飢えた獣が獲物を狙う時の姿そのものだった。


この恐るべき光景に直面し、女は生存本能で勇気を振り絞り、目を閉じて全身の力で道格を押しのけようとした。

「どけェェッ!!!」


叫び終わっても、女は自分が道格を押しのけられたかどうか分からなかった。ただ、力を込めて押した腕に何の手応えもなく、逆に左腕に疼く痛みが走った。次第に痛みは激しさを増し、耐えきれずに目を開けると──


「あ……ああああっ!?」


左腕の半分が消え失せ、切断面から大量の鮮血が「ドクドク」と噴き出している。眼前からは犬が骨を齧るような「ガリガリ、ザクッ!」という音が響いてきた。女は見るのが怖くてたまらないが、本能に抗えずゆっくりと視線を上げた。


切断された左腕の前半分が血まみれになって目の前で揺れ、道格が飢えた野獣のようにそれを咀嚼していた。数秒も経たぬうちに女の左腕は骨まで食い尽くされた。


「終わりだ……死ぬ……修……お母さん……お父さん……私……」


女の脳裏では言語の論理が崩壊し、遺言めいた単語をぽつりぽつりと発するだけだった。


道格は女の腕を食い終えると、彼女の首筋を見下ろした。血塗れの唇を舌で「ペロリ」と舐めると、牙を立てて首に噛みついた。女は呻く間もなく、道格が力を込めた瞬間に首が「ブチッ!」と切断され、首級が球のように地面を「ゴロゴロ」と転がった。


「香りが……この味は格別だ!」


道格は人生で初めてこのような芳醇な味覚を経験した。脳裏の復讐計画も七界四淵の野望も完全に霧散し、ただ女の肉体を貪り食う本能のみが残った。20分後、女の残骸は骨片すら残さず消滅し、男は凝血りで輝く唇を舌で「ペロリ」と舐め尽くした。


「ハハハ! その食い荒らし方は我ら淵獣そのものだ!」


スフィンクスの嘲笑が頭蓋内を軋ませる。


「何だと! 余を貴様ら穢れた畜生と同列に!」


「落ち着け。デュラーとネメアが半身も食い終わらぬ内に、お前は丸ごと平らげた。見よ」


道格が下を見下ろすと、床一面に肉片が飛散し、自身の衣装は凝血で黒光りしていた。


「この……余が?」


「当然だ! あの食い荒らし方をして無自覚とは?」


「人を食っただと!?」


スフィンクスの声に驚愕が滲む。


「記憶が無いのか?」


「至高の料理を味わった覚えはあるが……」


「……まさか……待て!」


「……もう何だ?」


スフィンクスが暫し沈黙し、ため息を吐いた。


「完全に淵獣化したな」


「その意味は?」


「ネメア共を見ろ。肉体失っても尚喰らい続ける。本来なら融合したお前の感覚で『食感』が分かるはずだ」


道格が目を閉じ臓器を確認するも、摂食感覚は皆無だった。


「感じぬか? 淵獣に胃袋は不要だ。食物を霊子変換し脳へ直結貯蔵する。お前は融合時に肉体変異したらしい」


スフィンクスの声が脳神経を駆け巡る。


「今調べると脳が霊子飽和状態だ。食った女が変換されたのだ。我らは人間のように霊子生成できぬ。生成能力ある人間こそが最高の餌だ」


「余が人を喰っただと!?」


「デュラーへ霊子を流し過ぎたせいで、淵獣本能が暴走したのだ」


道格が頭部を押さえる。確かに霊子の奔流が脳髄を満たしている。


「今後は人食いしかないのか?」


「試せ。自前で霊子生成できるか」


道格が瞼を閉じる。かつてのように全身へ霊子を巡らせると──生成速度が極端に鈍り、量も激減していた。


「かすかに生成できるが……遅く、量も微々たるものだ」


「ならば推測通りだ。自身の霊子が枯渇しなければ、淵獣の摂食本能は発動しない」


「今後は霊子の使用を制御せねば。再びあの卑しき獣の姿には戻らぬ」


「人を喰らうのは効率が良い。霊子補充の最適解だ」


「黙れ!」


道格がスフィンクスを怒鳴りつける。仮に実体があれば、この嘲笑う獣の皮を剥いでいただろう。


その刹那、研究所の照明が一斉に消えた。スフィンクスの警告が脳裏を貫く。


「危ない!」


道格が床を蹴って前方へ飛び退る。天井の亀裂から黄金の光矢が「ビュン!」と射出され、元いた場所を貫通する。


「背後だ!」


第二の光矢が右足に突き刺さる。錨のように地面に固定され、身動きが取れなくなる。第二撃が心臓を狙う瞬間──


「ウォオオォォッ!」


左腕のネメアの獅子頭が雷光の如く盾となる。光矢が右目から口腔を貫通するも、炎を噴きながら牙で「ガリッ!」と噛み砕く。視界を遮られた道格の左腕に、神経を焼くような痛みが走る。


「流石は我が半身よ!」


スフィンクスが狂喜する。その時、不気味な拍手音が響いた。


「アテローの矢を防ぐとは……陛下も落ちぶれたものだな」


漆黒の天井から男が降臨する。その声を聞いた道格の瞳孔が収縮する。


「お前が……ラーマァァッ!!!」

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