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月の見える夜

作者: カイル

一人の男が、屋敷の中を歩いている。

その足取りは、別段早歩きをしている訳でもないのに、素早く動いているように見える。

歩いている当人はもちろん早歩きをしているとは思っていない。

元来、この男は何に対しても素早く行動することを心がけている。

だからなのだろうか、足の持ち運びも外の者と比べると大分早い。

今は一人で歩いているが、もし後ろに誰か居ようものなら早歩きで着いてきていることだろう。


この男、名を毛利元就と言う。




元就の歩きは軽やかで、しかししっかりとした感じがある。

思い切り床を踏んでいるにも関わらず、足音は聞こえてこない。

不思議な歩き方をする男だ。


そんな足を、ぴたっと、まるで機械のように綺麗に揃えて止める。

まあこの時代に機械はないが、それほどに正確に揃えたと思ってくれればいい。

そして、これまた音もなく、その部屋の襖をすっと開ける。

人の来る気配など全くしなかったので、いきなり開いた襖に、部屋の中にいる女中達は驚いた。

だが、その中でたった一人だけ驚かなかった者が居る。

その者は元就が来るのを分かっていたのだろう、先ほどまで布団の上に体を倒していたのを、今しがた起こしたようだった。

彼女は元就の方を見て、薄く、だが確かに微笑みを向けた。



「まあ、元就殿。珍しいですわね、このような時刻にいらっしゃるとは」

「気が向いただけだ」



起き上がった女がそう言うと、元就は素っ気無くそう返した。

そんなやり取りを横目に、周りに居る女中達は目を合わせて気まずそうにしていたが、当の女性はそうですかと一言呟き、変わらず微笑を浮かべていた。



「下がれ」



元就が、一言だけ告げる。

その言葉が誰に対して告げたものなのか、そこに居る女中達は分からなかった。

だが、その部屋の主である女性が付け加える。



「もう今宵は下がって良い。何とも珍しいが、今宵は元就殿が看病してくれるらしい」



女中達の方に向かって、女性は笑う。

その言葉に女中達は驚きで声を上げそうになったが、何とか全員堪える事が出来た。

もちろん驚いたのは、今夜はもう下がっていいという事にではなく、今夜は元就が看病するという事実に驚いたのだ。


女中達は、この夫婦が仲良く語らっている姿を見たことなど無かった。

女中だけではない、この館に居る者達は一人として、仲睦まじく歩いているこの二人の姿を見たことがないのではないのだろうか?

政略結婚だから仕方がないのかもしれないが、寂しいものだ。

ここにいる女中を含め、ほとんどの者がそう思って居るだろう。


その元就が、自ら奥方のために看病する。唖然と口を開けて、女性の方を見つめる女中達。そしてその視線は元就にも向けられる。

すると元就が、目を見返してきた。

その目を見た女中達は我に返り、それはもう脱兎の如く、そそくさと部屋を出て行った。




部屋には、元就と女性の二人だけが残された。



「……いやにばたばたと出て行くものだ。はしたない」

「ふふっ、元就殿がお睨みになるからでしょう」

「睨んでなどおらん」

「そうですね。でも他の者には睨んでいるように見えるものです」

「そなたは、相も変わらず減らず口を叩くな」



元就は呆れたように、はあっと溜め息をついて、女性の隣に座った。

そして何も言わず、ずいっと腰に刺していたものを取り出し、女性に差し出した。



「これは?」

「高麗人参だ。滋養に良いらしい」

「まあ……本当にどうしたことでしょう。元就殿らしくない」



口を小さく開けて、女性は驚いた。

それも無理は無い。結婚してから一度も贈り物など貰った事がない彼女にとって、滋養にいいものだとはいっても、夫から物を貰うなどということは初めてだからだ。



「私らしくなくて悪かったな」



元就は無表情でそう言い放つ。

いや、一見無表情だが、明らかに不満の色が顔に見えていた。

それが分かるのは、この妻である女性だけであろう。血を分けた息子といえど、彼の顔の動きは分からない。



「本当に。明日は雨でございますね」



と、笑いながら元就の持ってきた高麗人参を受け取る。




そして、沈黙が訪れる。

どちらも進んで話をしようとはしない。

沈黙だけが二人の間に流れる。

この場面を見たら、他の者達はとても気まずくなって、どうでもいい話を喋り出すに違いないだろう。


だが、この二人にとって沈黙とは大切なものだった。

元々二人とも、騒がしいのは好まない。沈黙の中でもお互いの事は分かるのだ。

この二人の仲の良いところを見たことが無いと他人は言えども、この二人はそれで成り立っているのだ。

愛がないわけではないのだ。

むしろ、二人ともこれ以上に信頼のしようがないほどに、信頼しあい、愛し合っているのだ。

それが他人には理解されないだけ。

しかし二人ともそれでいいと思っている。

お互いだけが分かっていればいいと、そう思っているのだ。





「……大丈夫か」


ぼそっとその沈黙を破ったのは元就だった。

女性は首を軽く傾げて元就に目を向ける。



「起きていなくてもいいのだぞ。横になれ。体が震えている」



元就はそう付け加える。

自分の体が震えている事に気づかなかったのだろう、女性は自分の体をそっと抱きしめて首を小さく振る。



「いいえ、大丈夫ですわ。折角元就殿が来て下さったのですから、寝て過ごすなど勿体ないでしょう」

「私の所為か……なら私が部屋に戻ればいいか」



元就は何気なくその台詞を言ったつもりだったが、女性の顔が強張ったのを見て、すぐに後悔した。



「……済まん。冗談だ。そなたがいいなら起きていればいい」



元就はそう言ったが、女性は何も返してこなかった。




しばらく、また沈黙が流れたが、そう時間も経たないうちに女性が言った。



「……外に出たい」

「何?」

「その廊下まででいいのです。外に出たい」



その言葉は元就に嘆願しているものだ。

元就は、正直どうしたものかと思った。

妻の病状は、見た目より酷い事を彼は知っていた。

そう、もう長い命ではない……それは確信していた。

それに今の季節は冬。外に出るなど、体を悪くしたいと言っているようなものだ。



馬鹿か、そなたは。



そう言ってしまえばいいだけの事だった。


だが、元就はそう言えなかった。




たっぷりと十秒は考えただろう。

元就は長い溜め息をつき



「……いいだろう」



と言った。

女性はその言葉を聞き、ぱあっと顔を明るくさせた。

顔色は、良くはない。

だが、それでも分かるほどに顔を綻ばせたのだ。


元就は、女性が立ち上がろうとする前に、自らの腕で妻を持ち上げた。

女性は驚いて、元就に目を向けるが、元就は我関せずという顔ですたすたと廊下の方に向かって歩いていった。

そして、彼は両手が塞がっているので襖を足で蹴飛ばして開けた。彼を知る他の者が見たら天変地異が起こるかもしれないと思うような出来事だった。

その行動には、妻である女性さえも流石にびっくりしたらしい。きゃっ、と軽く声を出した。

だがそれでも元就は足を止めず、庭と空の見える場所まで妻を運ぶ。

そして妻をそっと廊下の先に下ろす。

自分は妻の左側に、すとんと座る。

どすんと音がしそうなくらいに乱暴に座ったのだが、やはり音はしなかった。



「……怒っておられるのですか?」


「いいや、物好きなやつだと思っているだけだ」



恐る恐る女性は元就に尋ねた。

だが、当の元就は飄々とそう答えた。その横顔は、少し呆れているようにも見えたが、頼もしい顔だった。

なので女性は、ふふっと笑みを浮かべた。



「咳でもこぼしたらすぐに入るからな」



元就はそう言うと、自分が羽織っていた羽織を女性にかけた。


だがきっと女性は分かっていた。咳をしようが倒れようが、自分が此処に居たいと言えば、この人はずっと一緒に居てくれるのだろうと。




そしてまた沈黙が。

ただ空を、庭を見ることしか出来ない。

館の壁が高くて、立っても外など見えはしない。

そして元就は空を見て、軽く顔を顰める。

先ほど女性が言ったからではないだろうが、空には雲がかかっていて、月どころか星も見えはしない。

やはり珍しい事はするものではないのか。元就は自分と空に腹を立てた。



「……今宵は、月が美しいですね……」



女性が、口を開けた。

元就は驚いて、横目で妻の顔を見る。

女性は空を見上げていた。


月など、見えない。美しいかどうかなど分からない。


むしろ今すぐにでも雨が降り出しそうだ。


だがそんなこと、妻の横顔を見たら元就は言えなくなった。


だからただ一言、




「そうだな」




と呟いただけだった。


その言葉に、女性は笑った、気がした。











雨が、しとしとと音を立てて降ってきた。


だが女性は部屋に入ろうとは言わなかった。


元就も口には出さなかった。






少しして、元就の右肩に心地よい重みがかかった。

かと思えば、その重みはすとんと自分が胡坐をかいている足に落ちてきた。

元就はそれに目をやりはしなかった。




その代わりに、ずっと空を見上げていた。

先ほど妻が綺麗と言った月を見上げていた。




もちろん此処に百人人間が居れば、百人とも月など見えぬと言うだろう。

先ほど元就が思ったように。




だが、今は違う。

今は元就の目に映っている。




これまで生きてきた中で、これほど美しい月は見たことが無いと思えるような美しい月を。


そしてその月に昇っていく何かを。






布越しに感じる温もりが、どんどんと冷たくなっていく。


雨もそれに呼応するかのように、どんどんと強くなっていく。


だが元就は部屋には入らなかった。


ずっとずっと、空を見上げていた。


朝に女中達が来るまで、そのまま座っていた。






その間に唯一つ動いたもの。




それは元就の目から流れ落ちた一筋の水だった。


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