9話:薄明の君は歌う
一晩中、剣は振られ続けた。テオフィルが彼の一族を滅ぼし尽くすまで。
吸血鬼狩りの男は途中から剣を振らなくなった。テオフィルはもう死んでいるのだ。魔剣に宿った力で動いているだけに過ぎない。剣でどれだけ斬っても意味がなかった。
ただ絶望の中で彼は正気を失い、そうして夜明けも近づく頃、一族が全て滅んだ故に“親族殺し”の刃は彼の身に届いた。
ただ、吸血鬼狩りの男の耳にはテオフィルが捧げた祈りの言葉のみが木霊していた。
物音がしなくなった建物、近寄らぬよう言われていたガブリエラはそっと中を覗き込んだ。
「テオフィル……さま……?」
「……くるな、と言っていただろう」
荒れ果て、血に塗れた部屋を隠すように、テオフィルの姿が扉の側に立っていた。
だがその声色には少女にもわかる明らかな死の、滅びの気配があった。
テオフィルの膝が折れる。
崩れ落ちたテオフィルを抱きしめ、ガブリエラは自分の着ている服の襟元を引っ張った。釦がはじけ、白い胸元が露わになる。
「わたしの血を吸って?」
ぐいぐいと身体を押し付ける。
「俺はもう……、誰もこの呪われた運命の螺旋に巻き込む気はない。
……そんなことより何か歌っておくれ」
Twinkle, twinkle, little star
ガブリエラの瞳から雫が落ちた。
涙に震え、か細き声が流れる。
How I wonder what you are
「ああ……それで……いい……」
曙光が稜線を染め、昇る日は彼の四肢を末端から焼いていく。
彼は本来、陽に当たって灰になるほど弱き吸血鬼ではない。だが、それほどに彼はもう滅ぶ寸前なのだ。
Up above the world so high
彼の口がガブリエラの首元に近づく。
ガブリエラは彼の牙に向けて首を差し出したが、その尖が彼女の皮膚を破ることはなかった。
ただ、彼の唇が優しく彼女の首元に、そして彼女の唇に押し当てられただけであった。
Like a diamond in the sky
テオフィルの呼気が僅かにガブリエラの金髪を揺らす。
「そうか……ここが……我が故郷か」
Twinkle, twinkle, little star
そう言った彼の顔は薄く笑みを浮かべていた。
少女の身体が彼の重みを感じなくなっていく。男の身体が灰と化して流れていくのだ。
ありがとう、と口元が動いた。だがそれはもう声にはならなかった。
How I wonder what you are
短い歌を最後まで歌い切ったとき、男の姿はどこにも残っていなかった。
少女は手の内に残る灰を握り、慟哭した。
血が騒めく。
プリスカはかつての恋人であり、自分を夜の一族に迎え入れた親でもあるテオフィルの手紙を受けて竜の国へと向かっていたが、彼の危機を知覚したのは竜の国に入ってすぐのことであった。
彼女は紅きドレスを身に纏い、夜闇に包まれた山野を風よりも速く走りだした。
一晩中駆け続け、稜線が紫に、青に、赤に、水色にと変化していく中、斜面を滑るように駆け降りて、その脚は小さな集落の中心で止まる。
鋤や鎌、弓を持って恐る恐る一軒の家を取り囲む村人たち。
そしてその入り口にへたりこみ、涙を流す少女。
テオフィルの存在は今やもう感じられない。
ここにいる全ての者を血祭りにあげてやりたいほどの絶望が胸を支配するが、必死の思いでそれを御する。
この村に夜の一族はいない。彼のために泣くこの少女すら人間である。
そう、彼は血の呪いに打ち克って旅立ったのだ。あの方は600年前の花の都の生まれ。彼女のようなまだ200歳にも満たぬ若輩には理解しかねる概念だが、それは寿ぐべきことなのだと夜の一族の間では言われていた。
一晩中走り続けた疲労も、胸を覆う絶望も。全てを秘して少女に問う。
「テオフィルさまは旅立たれましたか?」
少女はプリスカを見上げた。今の空のような色をした瞳に真紅のドレスの女の姿が映る。
なるほど、とプリスカは思う。藍玉の瞳、これにテオフィル様は薄明を見ましたかと。
「……はい」
「あの方は幸せでしたか?」
「……分かりません。ただ、さいごはわらってました」
プリスカは腕を組み、じっと目を閉じて眉を顰めて動きを止めた。
時計の秒針が一周するよりも長い時間が過ぎ、空は薄明から朝へと変わっていた。
「あなた、ウチにきなさい」
ガブリエラがこの村に住み続けることはできない。村人たちはテオフィルが化け物だと知ってしまった。そして化け物の隣にいた者を許すような人間はいない。
「え……」
「あの方と過ごした日々をわたくしに語り終えるまで。
その後、あなたが日差しの中に飛び立つのか、夜闇の中に戻るのか選ばせてあげる」
彼女はわざと野卑に口元を歪め、伸びた犬歯を見せた。
流れ続ける涙をぐしぐしと袖で拭い、こくり、と頷いて少女は立ち上がった。
女が慈愛に満ちた笑みを浮かべる。
少女の名……そう、彼は手紙の中で彼女をこう称していた。
「ではいきましょうか、『薄明の君』よ」