5話・新しき故郷
鉄道の西の果てからさらに北へと歩き、旅をすることとした。駄馬を購入して荷物を括り付け、そこにガブリエラを乗せて山道を歩く。
人間であれば碌な計画もなく、あまりにも軽装の無謀な旅であったであろう。だが、吸血鬼たる彼は疲れも知らず、食料もガブリエラの分さえあればよいのだ。
旅の途中、峠で昼の一番日の高い時間を木陰で休んでいると、唐突に少女が言った。
「わたしはガブリエラ」
「そうだな」
「きゅーひんいんの前におかれていて、助祭さまが天使さまの名前をつけてくれたの」
「……そうか」
その言葉に悲愴さは感じられなかった。実の父母を覚える前に捨てられたのか。幸せを知らざれば不幸とは感じまい。
「テオフィルさまのお名前は、どういう意味なのかしら?」
「昔の宗教劇の主人公の名前さ。男が悪魔と契約を結んだが改心して……赦される」
彼は口にはしなかったが、その劇は聖母信仰を示したものであった。
「むかし……」
「もう600年近くは前になるか。当時の花の都ではこの名が流行ったものだ」
「すごい長生き!」
「生きているのかは怪しいが、そうだな」
テオフィルの口元が歪む。
生と死の狭間、生きることなく死ぬこともない。定命の者ではないが、不滅には程遠い存在。
だが彼が人として生まれて死に、そして墓より這い出して夜の一族となってから、長い長い時を存在し、流離ってきた。
北の地で隻眼の神を筆頭とする神々が信仰を失い、最終戦争を待たずして姿を隠すのを見た。
黒の森で偉大なる人狼の長の死を看取った。
魔女狩りで魔女もそうでない者も火炙りとされるなか、全ての魔力と術を受け継いだ最後の魔女が“世界”を名乗って旅立つのを見送った。
魔力が世界から失われていく中、物質文明は発展していく。だがそこに人類の幸福はあるのか?霧の都の下層民たちを、彼らの暮らしを見るとそうは思えない。
戦で、飢えで、黒死病で打ち捨てられた民を見ていた頃から変わらぬ。
「……どうしたの?」
想いに耽ると少女と視線が合う。薄明の瞳が日差しを受けて輝く。
なるほど、これが老いた者の感傷か。
「いや、なんでもないさ。そろそろ行こう」
テオフィルは自らの滅びが近づいているのを悟った。
先日、女給の血を貰ったが、あれとて僅かな量を舐めただけだ。もはや吸血衝動もほとんど失われている。
そして数日。
「うわぁ!」
少女が馬の上で歓声を上げた。テオフィルは彼女が落ちぬよう、そっと背後に手を添える。
峠を越えた彼らの前には一面の草原が西陽を浴びて暖かい色に染まっていた。その中で草を食む羊たち。羊飼いが杖を振ると、矢のように牧羊犬が走り、それらを集めていく。
視線をさらに先にやると清流の煌めきが見える。その周囲には畑と背の低い家々の屋根。
古来より変わらぬ人の営みがそこにあった。
「ここに住むか」
「うん!」
一般的に言って田舎というものは余所者・流れ者に対して排他的な傾向がある。だがそんなことは魅了の異能に長けた者にとっては何の障害にもならない。弱く魔眼の力を使うことで、好意的な反応を引き出すことができるのだ。
その日は村長の家で一晩の宿を頼み、その場で居住の許可を得た。村長には相場以上の金を握らせ、持ち運んでいた砂糖や岩塩、蒸留酒を村の者に振る舞ったことも有効であっただろう。今は使われなくなった家を一軒譲り受けた。
草むらに埋もれるように立つ、出入り口に板の打ち付けられた家。古びているが土台はしっかりしているようだ。
駄馬を木に繋ぎ、釘で打ち付けられた板を素手で引き剥がす。
蟲どもを術で追い払い、雑草から生気を吸って枯死させる。
ガブリエラも教会の奉仕活動で掃除はさせられていたらしい。無論、振る舞われるパン目当てであるが。
思ったよりもしっかりとした手付きで埃を払い、雑巾で家を磨いていく。
テオフィルは家の地下室に行く。かつては酒や冬の食料を蓄えておく場所であったのだろう。彼はその中の一角に立つと、懐から小瓶を取り出して中身を床に撒いた。
不浄の土である。
彼が埋葬されていた墓の周りの土であり、夜の一族の力の源泉。その最後の残りであった。
棺桶があればなお良いが、流石にいきなり用意できるものでもない。土の上に板を敷いた。彼の寝床だ。
「テオフィルさま?」
「一階の寝室はお前が使うと良い」
「テオフィルさまは?」
「ここで眠る」
そう言って地面に敷かれた板を示した。
「これはねどこではないわ」
「わたしは生者ではないが」
定住した以上、日が傾いた頃に起きて朝のうちに眠る生活となるだろう。日を浴びれば死ぬような脆い存在ではないが、それでも夜の方が動きやすいものだ。
「昼は寝ているから留守番していなさい」
そうして板の上に座る。ガブリエラはもじもじと身を揺すった。
「なにかやることがほしいな」
「例えば」
「ひつじさんとか、こっことかおせわしたい」
テオフィルは頷いた。
「わかった、いずれ買おう」
「ありがと」
こうしてテオフィルは正午の前に横たわった。そうして夕方、テオフィルが目を覚ますと胸元に何か重みを感じた。
重みはもぞもぞと動くと声を出す。
「テオフィルさま、おはようございます」
暗がりの中でもよく見える彼の視界の中、微笑む少女の顔と瞳が映った。