2話:連れ込み宿にて・1
先日までの大雨は、道を川へと変貌させていた。
「なるほど、雨で町がこの有様では浮浪児たちも食事を得られぬか」
男は呟いた。
泥とごみを浮かせた茶色い水がゆっくりと流れていく。道向こうには高級ホテル。下男がそちらへ向かい、列車に乗っていた貴婦人を背負ってざぶざぶと泥の川を渡っていく。
流れ水は渡れぬ。
彼は路地裏へと向かうと人が見ていないのを確認して地面を蹴った。その身体はふわりと瓦斯灯の高さへと舞い上がり、彼はさらにそれを蹴ると屋根の上へと跳び上がる。
こうして彼は屋根の上を歩いて宿を探した。
炭鉱町だ。発展しつつあるがそこまで人口密度が高いわけでもない。
霧の都の南部に広がる貧民街では土地が足りず、安宿で紐にもたれ掛かって寝るような有様だったが、流石にこのあたりではそういうこともない。
ただ、駅を出るのが遅れたのもあって下層の宿は満室であった。
空きがあったのは連れ込み宿だ。
「女将、宿泊は可能か」
「空いてるよ」
酒に焼けた声が答えた。
女将の視線が無遠慮に男と、腕の中の少女を往復する。女は何も言うことなく鍵束を持って立ち上がる。
荷物と少女で男の手が塞がっているのだ。女将は2階の部屋の扉を開けると言った。
「はい、どうぞ」
「ああ。女将、彼女に粥を。あと盥に湯を頼む」
男はチップには多すぎる金を渡した。
「今すぐかい?2時間ほど後かい?」
「すぐだ」
女将は扉を閉め、十分離れたところで声を上げる。
「ふん、好きもののお貴族様もいたもんだね」
だが人間より遥かに鋭敏な男の耳はそれを正確に捉えた。
小児性愛者とでも思われたのだろう。だが男にはわざわざそれを否定するだけの熱意が無かった。
「去れ、矮小なる者どもよ……」
意識のない少女を抱え、誰もいない部屋に向けて呟く。彼の眼が鈍く紅く輝く。
部屋の隅や寝台から無数の蟲が、鼠たちが蠢いて窓の外へと逃げていった。
そして少女をベッドの上に横たえ、サイズの合っていない靴を脱がせる。
自身も帽子を脱ぎ、コートハンガーにコートを掛ける。血に汚れたシャツ。裸身を晒すと引き締まった筋肉に弾痕。
「治りが遅いな……」
銀の銃弾、それも聖別された銀の十字架を鋳潰して造られた弾で傷付けられたものだった。
扉がノックされる。
「だ、旦那様。お湯をお持ちしました。粥は後ほどお持ちいたします」
下男が持ってきた大きな桶からは湯気がもうもうと立つ。男はそれを床に置かせた。
縁にはタオルが添えられていたが、男はそちらは使わない。トランクから自分のものを取り出して湯に晒し、身体に付着した血を拭った。
血に汚れたシャツを鞄へと仕舞い、新しいシャツを羽織ると、再び扉が叩かれ、下男が持ってきた粥と水差しを受け取った。少女の眠る枕元のサイドテーブルにそれらを置く。
そうして彼はベッドの足元側へと腰掛けた。目を閉じると彫像の如くに動かなくなる。生者なら誰もが持つような気配すらしなくなった。
そして彼は想いに耽る。
彼の住居が焼かれたのはほんの数日前の事だ。それ自体は新聞にも書かれている。
薊の国、山間部の村で集団失踪事件があったという形で。
彼は偏執的な吸血鬼狩り共に追われ続けているのだ。
彼は夜の一族として長く存在する中で、生者からも同族からも幾多の字を与えられている。その1つは“故郷喰らい”というものだ。
かつて花の都に住んでいた彼を吸血鬼狩りたちは狩り損ねた。そして深くその身を傷つけられた彼は、狂気に囚われ近隣の村々を滅ぼすまで血を喰らった。
故に“故郷喰らい”。
だが先日の件は違う。
吸血鬼狩りどもが村ごと彼を滅そうとしたのだ。
ーー殺せ!焼き尽くせ!どうせこの村は吸血鬼共の巣窟だ!
吸血鬼に噛まれればその相手は眷属と化す。
そういった迷信により村の住民が全て吸血鬼であるかのように扇動し、近隣の村の男衆まで動員して吸血鬼狩りたちは村を攻め滅ぼしたのだ。
愚かな。
全てが眷属であれば、何を食していたというのか。
扇動された者共の愚かさ、そしておそらくはそれを理解していて扇動した者共の悪辣さよ。
無垢なる村人たちは全てが殺されたであろう。
攻めてきた近隣の者共も吸血鬼狩り共も血祭りに上げたが、幾人かは取り逃した。また追ってくるのだろう。
ふと男は眠っている少女が動く気配を感じた。
彼女の身体が寝返りをうつように動く。男は立ち上がると彼女の枕元へといどうした。
少しすると小さな鼻がぴくぴくと動いた。瞳が虚に開かれて薄汚れた天井に焦点が合うと、それはゆっくりと彷徨って横へと傾けられる。
上を向いていた時は藍に近く、こちらに倒されては陽光を反射して灰がかった水色に。夜明けの空のように色を変えた。
「……天使さま」
男の顔がしかめられた。
「天使ではない」
「おなまえ、知らないから」
「……テオフィル」