代償
豪華な舟に変貌を遂げた、彼らが乗る手漕ぎ舟は真っ黒な大海原をデルタトロス大陸へと渡っている。
舟夫の計らいにより、真冬にもかかわらず行きのような寒さに凍えることもないのだが、ユイナはずっと震えが止まらない。
それは、まるで死ぬまで抜け出ることのできない牢獄へと向かう囚人の気分であった。
大陸に戻ったらスピガのもとへ嫁ぎ永遠に彼のものになるという、この目に刻まれた、契約に従わなければならない。
それが、シュウを皇帝の座に就かせるため、彼の負傷した目と、自分の目をスピガに入れ替えさせた代償だ。
一生、影として生きる。すでに覚悟は決めていたはずだったのに。
いざとなると俗世から離れることをこんなにも後悔するなんて。
ユイナの目は、ダズリンドで織物をしている間に、以前よりもさらに研ぎ澄まされた感受性をもち、その感覚だけであらゆるものが今までと同じく、見えるかのように大方想像できるようになった。
それが影響しているのか、向かっている大陸の先で、灰色蜥蜴が手ぐすね引いて待ち構えているような感じがしてならない。
次こそもう逃げ場はない。
爬虫類の舌で締め付けられるように、がんじがらめに縛られ、抱かれることになる前にいっそのこと……。
いつだって差し違える覚悟はできている。
「お前、ずっとさっきから震えているぞ」
シュウは確かめるように、隣に座っているユイナの肩をそっと引き寄せた。
「大丈夫よ、兄様。あの島から無事生きて帰れたことで、緊張から解き放たれて震えているだけ……」
本当は正反対であったが、彼に気を使わせるわけにはいかないと思い、つい気持ちとは真逆の言葉を言ってしまった。
シュウは納得しているのかどうか、「ふーん」と言ってからずっと大海原を見ながら自分の短い金髪を触っている。頭脳明晰な彼はこの仕草をしながら、今後カルオロンを目指すにあたり、あらゆる思考を張り巡らせていた。
そんな時、入江の奥の方に手ぐすね引いて待ち構えているあの男の姿が見えてきたのだ。
スピガは到着が遅れに遅れた舟を待ちわびて、寒さでカチコチに凍り、ただでさえ青白く正気のない顔が、死人のように真っ白になっていた。
いつも先輩風を吹かせているそんな彼の様子がおかしくて、入り江に舟を繋ぎながら舟夫はぶ、ぶーっと吹き出してしまい、つられてシュウとジェシーアンもクククと声を押し殺して笑っていた。
やり場のない憤懣を舟夫に向けようとしても歯がガチガチと鳴り、言葉が思うように出てこない。その間に、シュウたちを入り江へと降ろすと、舟夫は文句を言われる前にそそくさと再び沖へと漕ぎ出していった。
成長期にあたるこの五年間で彼ら三人は急に背が伸び、大人びた顔つきになったのだが、スピガだけはまったく変わらない風貌でいつもの黒ずくめの服装に灰色の死んだ目をして、何故か、ジェシーアンに視線を釘付けにしている。
「……山猿、お前すごいな。……何というか、グラマラスというか。艶めかしいというか。……まるで、熟れた……鼠みたいだな」
彼の目には、顔はともかくとして、魅惑的な曲線美と高身長が際立つジェシーアンが著しく成長したように映り、上から下まで舐め回すような視線を送ってくる。
その視線に耐えかねた彼女はついに我慢の限界に達し、「な、なによ、鼠って!! 減るからそれ以上見ないでくれる? 気持ち悪い!」
と怒り出してユイナの介助をしはじめた。
「先が楽しみだな、シュウ?」とスピガは軽い口調で話しかけるが、シュウは「は? どこが?」と不愛想に返し、予めスピガが用意していた絢爛豪華な馬車へと無言で乗り込んだ。
そして、しれっとした顔で、
「久しぶり。思っていた以上に大人っぽくなったんだな」とユイナの耳元で囁いた。
その言葉にユイナは思わず驚きで固まってしまう。
隣で介助していたジェシーアンはすかさず間に入り、
「ユイナには指一本触れさせない……。私とシュウがダズリンドで術師相手に修業してきたの、知っているでしょう?」と鋭く牽制の言葉を放った。
「……おおっ、怖い、怖い。美しい姫の隣では用心棒が目を光らせている。でもそれもあと少し。シュウがあの契約のことを知るまでだ」
そう言って、にやつきながら馬車の方へ歩いていった。