唇の熱
最初は唇がそっと触れ合っただけだった。彼女は一瞬驚いたような表情をしたが、すぐに瞳を閉じ、静かに身を委ねてきた。
ヒロは堪え切れず、もう片方の手を彼女の腰に当てて、さらに強く抱きしめた。
離れていた五年の歳月を思い返しながら、何度も繰り返し唇を重ねていく。
思い描いていた通り、こんなに柔らかい感触を知らないというほど、彼女の唇はとても柔らかく、唇を通して心まで溶けていくような感覚へと変わっていった。
そして二人はお互いの思いをぶつけるかのように、その温かい唇の熱を確かめながら、ようやく想いを通わせる。
「ど、どうしよう。気持ちが抑えられない。ようやく君に触れられたんだもの。もっと、もっとしたい!!」
彼女はとろーんと半開きの目をして、
「初めて会った時から大好きよ、ヒロ。このまま私を連れ去って……」
と、絡めた指にそっと力を込めた。
そのたった一言が、薬のせいで興奮していたヒロのハートに火を付けた。
もういつから湯殿に入っていないとか、そんなことはどこかで吹っ飛び、彼はそのまま彼女を押し倒しかねない勢いで、唇を重ねながらぐいぐいと前へ進んでいったのだ。
もはやここが断崖絶壁の山の頂上だということは頭から完全に消え去り、ただ思いが通じあえた事にすっかり舞い上がってしまい、さらに芳しい匂い漂う彼女を抱きしめた。
「今日から俺たちは恋人同士だ。これからはずっと一緒だよ、もう絶対に離さないから」
そう言って、さらに優しくキスをした。
そんなキスにすっかり甘い顔をし、色っぽく頬が染まっている彼女を目にしたヒロは、さらに自分が抑えられなくなってしまう。
気づけば彼の首に手を回してキスをしていたのだが、やがてシキは異変に気付く。
それは興奮したヒロに押されるまま、二人が少しずつ崖の縁へと近づいていることだった。
ん?
気のせいかしら?
霞がかかってよく見えないけど。
シキは横目で何度も位置を確かめようとするが、ヒロの顔に視界を遮られ、さらに気持ちが高ぶって平衡感覚を失ってしまう。
これはひょっとすると、非常にまずい状態なんじゃないか。そう気が付いた途端、案の定ふっと身体から力が抜けた。
視界の端に、崖から後ろに倒れかかっているシキが見える。
「◯×△◇■◯×××!」
言葉にならない叫びを上げたヒロは、そのときようやく悟った。
興奮した自分が崖から彼女を押し出してしまったという、取り返しのつかない現実に。
自分の身に何が起きているのか、シキには受け入れられなかった。
どうして? どうして、ヒロ?
どーーうーーしてーー???
そんな問いを表情に浮かべたまま、掴んでいた手がするりとヒロの手から離れていく。
「あわわわわわわ、シキ! こんなつもりじゃなかったのに! 気持ちが抑えきれなくて押し出しちゃった」
どうしよう! どうしよう!
あれほどベガに注意されたのに、また見境なく突っ走ってしまった。やっと君と繋がることができたのに……!
ヒロはのけ反り落ちかけている彼女の体を、飛び出していって両腕で力強く引き寄せた。
頭の辺りに顔を押し付けて愛おしく庇う様にありったけの力を込める。
固く抱き合ったまま二人の身体は、崖の上から鏡に向かって真っ逆さまに落下していった。
あれほど苦労して登った山の高さを思い知らされるほど、長い滞空時間と猛烈な風を感じながら、やがて二人の身体は途中から燃え盛る真っ赤な炎に包まれていく。
その赤く燃え盛る炎が緩衝材の役割を果たし、鏡は二人に触れることなくパリパリ、ガッシャーンと激しい音を立てて砕け散る。
割れた時の衝撃音が鼓膜を通して脳にまで達する。脳震盪を起こしかけ、やがて二人とも意識が遠のいていく。
(…………何か聞こえてくる。可愛らしい小さな声で誰かが唄を歌っている)
エスフィータ エスフィータ
こどもたちに口づけを 幸せだった日々を思い出し涙するだろう
エスフィータ エスフィータ
亡き魂に花束を こぼれる涙を胸に抱き明日を見つめるだろう
エスフィータ エスフィータ
輝く王冠に祝福を 赤い月夜の晩に彼方のまばゆい光を掴むだろう…………
(あれ? この唄って前にも聞いたような……)
ヒロが薄目を開けると、ホログラム映像で浮かび上がってきた黒髪の女の子が、シキが歌っていたあの唄を隣で口ずさんでいた。
その小さな黒髪の少女は唄うのを止めると、ヒロに話しかけてきた。
「やあ、二人とも鏡の中からは無事脱出できたようだね。でもまだまだよ。まだ何も始まっていないのだから、ふふふ………」
そして抱き合っている二人の周囲を、クルクルと踊り子のように軽やかに舞いながら、再びあの唄を口ずさみ出した。
(………なぜこの子もこの唄を知っているのだろう?)
腕の中を見ると、シキの銀色の髪が揺れている。
ようやく想いを確かめ合い、恋人となれた彼女。
自分に力を与え、戦う勇気をくれる彼女。
できることなら、このままずっとこうして抱きしめていたい。
「永遠に俺のそばにいてくれ、シキ……」
その言葉を最後に、やがてヒロは完全に意識を失ってしまった。
“ねえ、君はあの鏡の中で過ごした時のことずっと覚えていただろうか?
今になって思えば、二人きりで過ごしたあの満ち足りた時間が、一番幸せだったのかもしれない。
二人とも背負うものが何もなく、ただ純粋に愛を囁いていればよかったのだから。
あの時は夢にも思っていなかったんだ。
まさか、まさかこんな事になるなんて……………“




