血脈
冬が過ぎ、春の兆しが感じられる頃、ヒロたち一家はパシャレモへの旅路を決めた。
これは、天下泰平の世を維持するため、大陸の政務の大半を一手に担う必要が生じたからである。
そのため、居城をミルフォスの城に定めることとなったが、現在、大規模な改修工事が進行中である。
ゆえにしばらくの間、夏は涼しいパシャレモにて、冬は暖かいバミルゴにて、過ごすこととしたのである。
幼いリトと同じ馬車に乗ることを強く拒んだシキは、馬上から移りゆく景色を心ゆくまで楽しんでいた。
だがその一方で、彼女が人目に晒される状況に、ヒロの胸中は落ち着かないままであった。
「なあ……、俺はどこかおかしいのだろうか。閨のことがふと頭をよぎり、気がつけば、一日中、彼女のことばかり考えているんだ」
ヒロの言葉に、周囲を取り巻く兵士たちは顔を赤らめ、その場に微妙なざわめきが広がった。
その表情には羨望の色が浮かび、四六時中、そんなことしか浮かばないこの冴えない男が、なぜ女王の相手なのか? という疑問がよぎっていたに違いない。
テルウはそんな彼らの心情を見透かしたかのように、ひそかに苦笑を漏らす。
「新婚なんだから無理もないさ。あの子も、外見は以前と変わらないのに、色気ときたらすごいもの。それに、世間じゃ側室や妾を置くのが常だっていうし、夫婦仲が良いのはむしろ喜ばしいことじゃないか」
(王が多くの妃を娶り、子孫を残すのは当たり前のことだ)
かつてロジに諭された言葉は、ヒロの胸中に今なお深く刻まれている。
――海の向こう、遥か遠い異国の地では、安定した治世を築くため、数多の異性と政略結婚を結び、その血脈を絶やさぬよう多くの子を成すことが当然とされている――
ヒロもまた、それを目にしてきた。しかし現在の後継者はリトただ一人。シキが命懸けで産み落とした子である。
頭では、多くの子をもうけることが大陸に安定をもたらす最善の策であると理解していても、心がそれを受け入れられない。
もう二度と、グラデスの時のような義務感に囚われた時間を過ごすことなど、自分には到底できそうにもなかった。
「馬鹿なことを……。側室や妾を迎えたら、彼女は怒り心頭で国に帰ってしまうさ。ああ見えて、彼女は嫉妬深いんだ。それに――」
一瞬、彼の顔に影が差した。寂しげな眼差しを浮かべながら、ヒロはふと視線をシキの方に向けた。
「それに、彼女にとっては何も俺である必要などない。他にいくらでも相応しい相手がいるのだから」
子を成すことにおいて、必ずしもヒロである必要はなく、シキ自身が担い手となることも許される。
それこそが、この夫婦が他の王族とはまったく異なる点であった。
パシャレモの宰相アラミスは、父親によく似たリトの姿に目を見張り、驚愕と歓喜の声を同時にあげた。その顔は、もはや宰相としての威厳を忘れた爺のようである。
一方、ヒロは城の人々に会うたびに、隠すことなく喜びをにじませながら、誇らしげにこう紹介した。
「俺の、奥さんだよ」
その満ち足りた声音に、誰もが心をほぐされ、わずか数時間のうちに、南部出身のシキはこの地に温かく迎え入れられたのだ。
その後二人が向かったのは、ミッカが眠る墓前である。純白の花を供えたヒロは、長年の想いを込めて母に語りかけた。
「母上、随分と遅くなったけど、ようやく俺の大切な人を連れてきたよ。俺たちは十三年もの歳月を経て、ようやく夫婦になれた。そして、もうすでにリトという息子もいるよ」
「お、お母様、初めまして。不束者ではございますが、どうぞよろしく――」
緊張で声を震わせながら挨拶するシキ。そのひたむきな姿が愛しくて、ヒロは背後から彼女をぎゅっと抱きしめた。
「ちょっと! 今、挨拶してるところなんですけど!!」
突如として地面に押し倒され、シキの頬は怒りと恥ずかしさで瞬く間に真っ赤に染まっていく。
「だって、君が“不束者”なんて、可愛らしいこと言うから、我慢できなくてつい」
共に暮らす日々のなかで、シキには徐々にわかってきたことがある。
それは、彼がまるで子どものように本能の赴くままに生きているということだ。
口づけを望む時には、どこにいようとも迷わず駆け寄り、愛を囁きたいと思えば、周囲の視線などものともせず、その想いを言葉に乗せる。
そしていつも、彼女が寂しさを感じぬよう、甘い言葉と細やかな気遣いを欠かさない。
まったくもって、信じがたいほど優しい夫である。
しかし、尽くされれば尽くされるほど、シキの胸には、まだヒロに伝えられぬ言葉が重く沈んでいた。
幾度となく口にしようと試みたものの、そのたびに心臓が切なく震え、言葉が喉元で止まってしまうのだ。