名も知らぬ青年
バミルゴの城門が厳重に閉ざされていなかった頃、傷だらけになった女騎士がこの地に辿り着いた。
ぼろぼろの鎧をまとい、手には巨大な剣を携えたその姿は、まるで死神のようである。刺客としての任を果たしたものの、なおも追手は執拗にその姿を狙ってくる。命の火を握るのは果たして死神か、はたまた追手か。
そんな危機的状況にありながらも、胸中はどこか愉快さが湧き上がっていた。
穏やかな時が流れる城塞都市。
神への信仰と施しの精神に満ちた民は、この傷負い者に心よく食を与え、傷を癒すための住まいを貸し与えた。
そして、この宗教国家には行き場を失った者たちの受け皿として、俗世を捨てた神官となる道があることを知った。
ただし、その資格は男性にのみ与えられるものである。
防衛の要として堅牢な城壁に守られた城塞都市。この地は身を隠すには最適な場所であった。
かくして、男性と偽ったアルギナは神官として宮殿に潜り込むことに成功する。やがて彼女は王族の存在さえも脅かすほど、その権勢を密やかに広げていったのだった。
居場所のなくなった宮殿で、風のように存在を消して暮らしていたカージャは、ある日のこと、不思議な光景に遭遇した。
大樹の下に佇む一人の青年。
その周囲には数えきれぬほどの鳥が集い、彼が奏でる調べに魅せられたように優雅な舞いを繰り広げている。
あるものは彼の肩に止まり、またあるものは休むようにその足元で静かに憩っていたのだ。
「あなたは鳥使いなのかしら?」
青年は長身にして、その瞳は澄み切った青空のような輝きを湛えている。髪は陽光に透き通る長き金色であり、明らかにこの地の者ではない。
肌は日焼け一つない白く滑らかなもので、むしろ北の国からの来訪者のようであった。
「カージャ様」
青年はカージャの姿を目にした途端、ひざまずき、深く頭を垂れた。しかし、神官としての経験は浅いのか、すぐに立ち上がると、腕に鮮やかな鳥を乗せたまま、人懐っこくカージャの傍へと歩み寄った。
「いえ、これは『笛言葉』と呼ばれる、古のセプタ人たちが用いた伝達の術なのです。鳥たちはある特定の周波数に反応し、引き寄せられているのです。どうぞ、手を差し出してごらんなさいませ」
カージャが青年の言葉に従って手を差し出すと、鳥はカージャの指先から腕を伝い、そのまま頭上へと登っていった。そして、やわらかなさえずりと共に、こつんこつんと小さな嘴で頭をつつき始めた。
「ふふふ、くすぐったいこと! この子、私をからかっているのかしら?」
カージャが久方ぶりに声をあげて笑う様子を、青年は穏やかな微笑みを浮かべて見守っていた。
そして静かに口を開き、「いえ、彼らはただ、カージャ様に笑みを届けたかったのだと思いますよ」とやさしく言葉を添える。
次の瞬間、青年が笛言葉を奏でると、鳥たちは一斉に舞い上がり、カージャの周りを幾重にも巡り始めた。
色鮮やかな鳥たちは、まるで魔法にかけられたかのように宙を舞い、優雅な輪を描く。その中にあって、カージャは宮殿の重苦しい束縛から解き放たれ、自由な空気に身を委ねる心地良さを覚えたのだ。
「ようやく、笑顔をお見せいただけましたね。どうか、いかなる時も、たとえどれほど苦しくとも、笑みを絶やさぬように。笑ってさえいれば、不思議と物事は良き方向へと向かうものです」
カージャはその言葉を聞き、はたして自分はどれほど辛い顔をしていたのかと、ふと胸をつかれた。
そして微笑みを届けようとしたのは鳥たちではなく、目の前の青年であったことに、この時ようやく気づき、暖かいものが胸を満たしたのだ。
この日を境に、名も知らぬ青年との密やかな交わりが、欲望渦巻く宮殿の中で新たに芽吹き始めたのであった。