一難去ってまた一難
「……アーロン殿、致し方ないことかもしれません。陛下は御母上と離れて育たれ、身近にいたのはリヴァ殿や神官といった男性ばかり。そのような環境においては、閨房の知識を授ける者もいなかったのでしょう。しかし、問題はその先にございます」
医師が口を挟んだ。
「もう何が来たって驚かねえ。だから、その“先の問題”ってやつを隠さず話せ」
アーロンがシキの背中をゆっくりと擦りながら言い放つ。その様子を冷ややかな視線で見つめる医師の顔には、ほんの僅かな哀しみが落ちていた。
「この国において、結婚は神聖なる契約とされています。王族たちはその血統を守るため、複数の配偶者を持ち、最古の王家としての歴史を長く紡いできました。もし陛下が私生児を産むという事実が明るみに出れば、生まれてくる御子は人目に触れることなく、陰に隠された生を余儀なくされるでしょう。かつての陛下ご自身がそうであったように」
未婚のまま、人知れずシキを産んだカージャ。
彼女の唯一の子を見た瞬間、アルギナの心には神官の権威を誇示する策謀が渦巻いていたことだろう。
だからこそ、アルギナはシキを守護神という名のもとに塔へと幽閉し、母であるカージャを蔦が絡みつく古びた屋敷へと追放したのだ。
それは、この国における王族が生む私生児の扱いが、いかに無慈悲なものであるかを如実に物語っていた。
「いずれにせよ、神官たちの耳に届くのは時間の問題でしょう。もし御子を守りたいのであれば、一刻も早く婚姻をお決めになることをお薦めいたします。この際、アーロン殿でも良いのではありませんか? 南東部を治める領主が、いつまでも独り身というのでは領民たちも安らげないでしょう」
医師は冷ややかな表情で言葉を告げると、二人だけを残して部屋を後にした。その場に残されたのは、視線の交わりすら避けるアーロンとシキだけだった。
一難去ってまた一難。
重苦しさに耐えられなくなり、アーロンはふと溜息をつくと、シキの頭にそっと手を置いた。
包み込むかのように、静かに頭を撫でながら「とりあえず、今は何も考えるな」と柔らかい声で囁くと、アーロンは静かにその場を後にしたのだ。
そして別室で待機していたシキのお世話係の青年のひとりに歩み寄り、低く抑えた声で口を開いた。
「少々、頼みがある。決して神官には知られるな」
驚いたように目を見開いた青年だったが、すぐに小さく頷き、静かに姿を消した。
それから幾日かが過ぎ、日々の公務すら手につかぬほどにシキは衰弱していった。悪阻の影響で水さえも受け付けず、起き上がることすら叶わぬ有様である。
やがて、その異常は神官たちの知るところとなった。
彼らはもはや隠し通せぬことを悟ると連日議論を重ね始めた。
議論は収まる気配を見せず、医師同様、同盟を結んでいるエプリト領主で手を打つべきか否か、その是非を巡り激しく争われたのである。
「はあ~っ、毎日こんなに辛いなんて。どうして私ひとり、苦しまないといけないの………」
ただ一人、取り残されることとなったシキは、いつ帰って来るかもわからないヒロをひたすら待ち続けていた。
残るのは深い喪失感のみであった。
(もしこの身が無事に戻れるならば、その時は、俺の妻となってほしい――)
今はただ、ヒロが残したその一言を唯一の拠り所としているだけである。
「あなたの御父様に、いつも私は振り回されるのよね……」
それはベッドに横たわりながら腹部をさすっていたシキの唇から漏れた本音であった。
その瞬間、不意に気配を感じ取った。上方から誰かがじっとこちらの様子をうかがっているのである。