遠い存在
「皇女殿下、こちらにお見えでしたか。一大事にございます。皇帝陛下が崩御あそばされました。それに伴い将軍も。この者が、皇位継承に不可欠な指輪と、それを受け継ぐ者の居場所を知っていると申しており、ここまで引き連れてまいりました」
一人の高官らしき男がそう言うと、軽く兵たちに目配せを送り、全身に酷い打撲を負ったテルウが手を縛られたまま、無造作にカイの足元へと投げ込まれたのだ。
口を真一文字に結び、瞳を大きく見開いたまま、テルウは虚空を鋭く睨みつけている。
カイは、テルウの胸奥に巣食う深い悲しみの源が、ジェシーアンにあることを知っていた。だからこそ、彼は静かにテルウの肩に手を添え、その体を支えた。そして、感情が一気に露わになるかのように、突如として、ユイナが鋭い叫び声を上げた。
「な、なんてことを!? すぐにその縄を解きなさい! 彼は私を救ってくれた大切な恩人よ!」
ユイナの怒りに満ちた声が響き渡ると、兵たちは顔色を変え、慌ててテルウの縛られた縄を解いた。テルウは、痛みに耐えながらも気丈に立ち上がり、まっすぐユイナの方へ歩み寄った。
「これ……。ジェシーアンの傍に落ちていた。あんたを売るような真似をして、本当に申し訳なく思っている。あのまま兵士たちに討たれても構わない覚悟だった。だけど、ジェシーアンが、何としても生き延びろ、って俺に言っているような気がして……こんな卑怯な手を使っちまった」
テルウがユイナに差し出したのは、かつてシュウがダリルモアから奪還した、皇帝の指輪だった。
帝王の印章が刻印されたその指輪は、ただの装飾品ではなく、代々カルオロンの皇帝が継承してきた宝物である。
その指輪を見た瞬間、取り囲む兵たちは驚愕の表情を浮かべ、そして全員がユイナの前で一斉に膝をついた。
その光景を目の当たりにし、ユイナの心には動揺が広がり始めた。
すなわち、この指輪が示すのは、皇帝の崩御により、唯一の後継者であるユイナが皇座に就き、カルオロンを率いる運命を背負うことを意味している。
同時にそれは、これまで共に過ごしてきたカイにとって、彼女がもはや手の届かない、遠い存在となってしまうことを示す冷酷な現実でもあった。
「もう、君は俺たちの同居人じゃないんだ。国に帰りなよ。できれば、そのまま兵を引き上げてくれると助かるんだけどな。結局、この侵攻を止められるのは君しかいない」
カイは、不安げに見つめるユイナに向け、小さな声でこう言った。
スピガとの契約が解かれ、彼女が陽の下に出たその瞬間から、こうなることは予想していた。これが、彼女の本来のあるべき姿なのだと。
大国の皇女であり、これから女帝としてカルオロンを率いるべき存在のユイナが、平民上がりの宰相補佐である自分と釣り合うわけがない。
その現実とようやく向き合う時がきたのだ。
ユイナは涙を拭い、覚悟を決めたかのように毅然とした表情を浮かべた。
埃まみれの彼女の姿を見て、「すぐに御身体を清めよ!」と騒ぐ高官たちが慌ただしく動き回る中、彼女は立ち去る直前に、静かにカイとテルウの方に向き直る。
言葉は一切なかったが、その場の空気を一変させるかのように、彼女は見事なまでの深いお辞儀を二人に捧げたのだ。
その動作は、女帝としての誇りと感謝、そして別れの決意を意味するものであった。




