新たな世
ヒロは転がるように身を低くし、間一髪のところで危機を免れることができた。
巨大な炎は頭上をかすめ、轟音を伴いながら後方の窓ガラスへと向かっていく。
「立ち上がれ! 今度こそは、貴様もろとも城外に吹き飛ばしてやる」
シュウがそう言い放つと、ヒロはよろよろと剣にすがりながら、何とか立ち上がった。荒い呼吸は乱れ、言いようのない吐き気が胸を締めつける。
彼の脳裏には、無敵の怪物とも言えるこの男と最初に相まみえた瞬間が、まるで封じ込められた記憶の扉を開けたかのように鮮烈に蘇った。
心が削ぎ落とされるかのような気持ち悪さとともに、眼前に立ちはだかった金髪の子ども。その存在は人の域を超えたものであり、ダリルモアは身動き一つ出来なかった。
彼の憎悪や殺意は闇夜の如く、底知れぬほどに渦巻いていた。
しかし今、それにも勝る何かが、彼の内に宿っているのだ。
(いいか! この力は使うと憎しみしか生まれない、だから絶対に使うな! 自分自身が持つ真実の力を信じるんだ! これから先、お前は絶望を知ることだろう。だが必ず答えはある。希望を見出せ、運命の子!!)
大陸随一の剣士にして、養父であるダリルモアの死の間際の言葉。その真意が、遂にヒロの胸中に響き渡った。
その瞬間、これまで頼ってきた剣を、まるで不要なもののように、ヒロは力任せに遠くへと放り投げたのだ。
乾いた音が王座の間に鋭く響き渡り、その音に応じるかのように、シュウは微かに眉を動かした。
「どうした? 拾え。這いつくばって拾いに行け!」
シュウの言葉が冷たい刃のように響く。
しかし、ヒロは微動だにせず、その場に立ち尽くしている。そして、ただ哀れみに満ちた瞳でシュウを見据えるばかりだった。
もしも、彼の傍らに養父ダリルモアのような存在があったならば。
もしも、復讐の炎に身を焦がし続ける人生を歩まなかったならば。
彼の運命はいかなるものとなっていただろうか。
ヒロが向ける表情を侮辱されたかのように感じたシュウは、ついにその掌に底知れぬ殺意を集めた。そして、全身全霊をもってそれをヒロに向けて解き放ったのだ。
黒に近い深紅の炎が、怒涛の如き熱波を巻き起こしながらヒロへと襲いかかる。
シュウの視界は歪み、猛り狂う炎の先に何も見えなくなる。
しかし次の瞬間、その揺らめく炎の中から現れたのは、片手でそれを受け止めて立つヒロの姿だった。
炎の凄まじい力に押され、ヒロの身体はずるり、ずるりと徐々に後退していく。
それでも彼は歯を食いしばりながら耐え続け、もう一方の手を添えると、両手でしっかりとその灼熱の炎を受け止めたのだ。
「何故だ? なぜ……」
驚愕を隠しきれないシュウ。その焦燥に満ちた表情を前に、ヒロは静かに言葉を紡いだ。
「この力の機動力が何だかわかるか?」
「知るわけがない」
シュウは眉をひそめ、苛立ちを露わにしながら低く答えた。
その言葉と同時に、シュウの掌には新たな炎が生まれた。怒りを宿した炎は、瞬く間に勢いを増し、再びヒロに向けて放たれた。
「この力は、負の感情が極限に達した時に発動するものだ。使い続けていて、それに気付かなかったのか?」
ヒロは放たれた新たな炎もまた、何の躊躇もなく受け止めた。
それは、『デルタトロス創世記』の副本に僅かに刻まれていた文字から導きだされた結論である。
そこにはこう記されていた。
憎しみ、貧困、飢え、終わらない奪い合い。度重なる戦闘、復讐に次ぐ復讐。この世に存在する負の連鎖。
その負の感情が極限まで高まった時、胸の奥から湧き上がる思いが、計り知れない力を生み出す、と。
ベガを失った瞬間、ヒロの中で抑えきれなくなった術師への憎悪が爆発した。
山脈で目の前に現れた狼たちと対峙したその時、やるせない怒りと悲しみが体の奥底から燃え上がってきた。
そうした数々の経緯を経た末に、ヒロはこの力の本質を悟る。
それは、底知れぬ悲しみや怒り、絶望といったあらゆる負の感情を糧として発現するものに他ならない。
そして危機が迫っているとき、大陸に生まれ落ちるコドモタチはその力を介して、互いの存在を確かめ合う。
闘いの末、《最後の一人》となるために。
「そうだ、全ての始まりは負の感情だ。負の感情からは、さらに新たな負の感情しか生まれない。だから父さんは自らの右腕を森の女王ササに捧げたんだ。負の感情に染まった剣術では、この大陸を救うことはできないと悟ったから」
その言葉と共に、ヒロの掌の炎が静かに沈静化していく。
「だからこそ、俺はこの力を封じる。そして、こんな力に頼らずに済む世界を必ず創り出してみせる。夢や希望の共存によって成り立つ新たな世だ」




