逃げ場のない状況
数日が過ぎても、ジェシーアンは食事の時間にだけ目を覚まし、それ以外は深い眠りに落ち続けている。
食事を運んでいるテルウの話によれば、ジェシーアンの記憶は山脈で過ごしていた九歳の頃で止まったままだという。ユイナのことも、西の皇帝や自身が将軍職に就いていたことさえも忘れていた。
「これは不幸中の幸いだ。彼女が九歳の子どもの頃に戻っていたから、兵や侍女は失神程度で済んだんだ。もしも、彼女が十八歳の頃の記憶を保っていたなら、確実に全滅させられていた。なにせ二千人の刺客を相手に修業を積んだカルオロン軍の最高司令官だったのだからな」
そう言いながらも、カイの意識は別の場所に飛んでおり、完全に心ここにあらずの様子。
彼の目の前には古びた書物が山のように積み上げられている。
膨大な量の書物を執務室に持ち込み、貪るように読みふけっていた。その中には、妖術や古代の契約に関する無数の知識が綴られているが、ユイナの契約を無効にする決定的な方法は見つかっていない。
スピガは、かつて雪原を彷徨い、死の淵にあったユイナとその兄シュウに手を差し伸べた術師だという。
花のお茶をこよなく愛し、長年の時を共にしてもその外見には一切の変化が見られず、年齢も不詳だった。
蟲や鳥などの生き物を巧みに操り、数年かけて山脈に潜伏していたダリルモアの居場所を突き止めた高位の術師である。
そして、ユイナの申し入れにより、両者は特別な契約を交わすに至った。
その契約の証として、シュウとユイナは互いの眼を入れ替えたのだ。
だが、それだけではない。
かつてペンダリオンが語ったように、スピガをはじめとする術師たちは、もとは人であったにもかかわらず、秘密結社に属することで卓越した能力と滅びない肉体を手に入れる。
年長者や特別な力を持つ術師たちは、自らの寿命を欺き、たとえ心臓を刺されようとも死を迎えることはない。
つまり、彼らをどう倒せるのかは未だ謎に包まれているのだ。
婚礼前夜にスピガの元を逃げ出したユイナを追う追っ手たちは、こうしている今も窓の外に迫ってきているかもしれない。
逃げ場のない状況で、どのようにしてこの運命を切り抜けたらよいのか。
カイはそのことを考えながら、執務室の窓越しに外を見やった。
カイが不安と焦燥を募らせている頃、ユイナは静かに人目を避けながら、ジェシーアンの部屋へと足を運んでいた。
彼女の部屋はユイナが仮住まいしている客間とは異なる階下に位置しており、その部屋への道は静寂に包まれていた。
ジェシーアンは正気を取り戻してからというもの、ほとんどの時間をベッドの上で過ごしている。
彼女の傍には常にテルウが付き添い、彼が片時も目を離すことはなかった。そのため、ユイナが彼女と二人きりになれる機会を見つけることは容易ではない。
そこでユイナは、侍女を使い、テルウが席を外すように仕向ける策略を密かに進めていたのだ。
手筈通り、食事の支度が整ったと知らせに来たテルウお気に入りの侍女と彼が部屋を出て行く瞬間を見計らって、ユイナはジェシーアンの部屋へと向かっていたのである。




