師弟の掟
ダリルモアは居間で丁寧にペンダリオンの首の治療をしている。
痛みを和らげ腫れを抑えるための塗り薬を塗り、激しく動かさないよう注意した時のことだった。
「先生………」
ペンダリオンは師弟の掟を破って、師の了解を得ずに小さく声を出した。
特に咎めることはせず、ダリルモアは手拭いで顔の汗や手を拭うと、ゆっくりと棚から酒を出してグラスに注いでいる。
「集落で嫌な噂を耳にした。西の大国がついに大陸統一に向けて動き出したらしい。しかもそのために皇帝ヒュウシャーは禁忌に手を出したというのだ」
「禁忌……、ですか?」
「意のままに動く特殊部隊を作ることに成功したらしい。しかもその総称だが……」
ここでダリルモアは酒をぐいっと一気飲みした。
「灰色の梟と呼ばれている」
「灰色!? では、あの助けた奴はもしかしたら?」
「梟どもは年端もいかない少年だという話だ。皇帝の思い通りに動く人形にしてから、標的となる人物の元へ送り込む。相手も少年であったとしたら油断するであろうな」
ペンダリオンはハッとして思わず首に手を当てた。その様子を見て、ダリルモアは目を細めた。
「どうであった、梟は?」
「……正直、へし折られるかと思いました。錯乱状態に陥った時の力の入れ方が尋常じゃない」
「あのような少年たちが野に放たれたりでもしたら、大陸全土は間違いなく絶望感に襲われることになるだろう。その前に、彼の精神状態を確認してから、精神療法などの治療を行い、再び人間としての心を取り戻す。ペンダリオン、彼から決して目を離すな」
「あっ、いけない! ロウェナにあいつを看病させたままだった!!」
眉間に皺を寄せ、複雑な表情を浮かべるペンダリオンは突然、もう一人の弟子に危険人物を任せっきりだったことを思い出した。
「ロウェナのことなら心配はいらん。あの子は普通の女の子とは違う。いざとなったら急所を突いて雄牛のような大男であっても瞬時に倒せるだろう」
師が自室に戻ってから、ペンダリオンはゆっくりと屋根裏部屋へロウェナの様子を見に行った。
階段を上がりきり、廊下に一歩足を踏み入れたところ、屋根裏部屋から木々の踊るような旋律が聴こえてくる。
ふと足を止めて、ペンダリオンはじっと聞き耳をたてた。
エスフィータ エスフィータ
こどもたちに口づけを 幸せだった日々を思い出し涙するだろう
エスフィータ エスフィータ
亡き魂に花束を こぼれる涙を胸に抱き明日を見つめるだろう
エスフィータ エスフィータ
輝く王冠に祝福を 赤い月夜の晩に彼方のまばゆい光を掴むだろう
エスフィータ エスフィータ
鏡の中で踊り続け 永遠にほほ笑み続けるだろう
エスフィータ エスフィータ
ファ オ デルタトロス……
「これは淋しい時に元気をもらえる唄だよ」
そう言いロウェナは少年に向かって延々と唄を歌っていた。
あの唄は師が二人だけの秘密にしろと言って教えてくれた特別な唄である。
それを素性も分からない危険人物にあっさり教えるのかと、ペンダリオンは言いようのない苛立ちが込み上げてきた。
すると屋根裏部屋からロウェナが満足の笑みを浮かべて出てきた。
「ロウェナ、あの唄は大事な唄だから、決して他人に明かしてはならないと先生が言っていたのを忘れたのか?」
扉の外でペンダリオンが問いかけた。
「だって、最初は興奮状態だったけど、咄嗟にあの唄を歌ったら、次第に落ち着きを取り戻したんだ。これはすごい発見だぞ。早速、先生にも話さないと。それに彼は可哀想なことに自分の名前すら覚えていないらしい。だからとても良い名が浮かんだんだ。古いセプタ語で夢や望みという意味の名はどうだろう?」
捨て猫を拾ってきたような気分なのだろうか。
それとも彼女の内面に隠された母性のようなものがそうさせるのか。
まるで別人みたいになって、ロウェナは楽しそうに階段を駆け下りて行った。
ベッドの方に目を向けると、名もない少年が猫のように吊り上がった目でこちらをじっと見ている。
本当は捨て猫どころか、鋭い牙を隠し持った狼であるくせに。
ペンダリオンは首を傷つけられた悔しさも相まって、軽蔑したような表情を浮かべていたのである。




