淑女の鑑
「苦しくて吐き気がする。彼女を迎えにいくって約束したのに、ただそれだけなのに、何でこんなことになってしまったのだろう? 血判状で無理やり婚姻させられて、これじゃあもう求婚どころか二度と会えなくなってしまった。あまりにも二人の立場が幼い時よりも大きすぎて、おかしくなってしまいそうだ……」
打ちひしがれているヒロに、慎重に言葉を選んで、カイはゆっくりと話し出した。
「酒をあおるように飲んだあげく、あの高さから飛び出したんだ。吐き気がするのは当然だろう。昔と違い、お前とシキはお互いに背負うものが大きすぎる。……でも、グラデスとの婚姻は解消されたよ。どういう経緯か知らないが、血判状には続きがあるという証拠をユイナが掴んだんだ。しかしこれからもっと障害が大きくなるよ。婚姻関係は解消されたけど、過去にミルフォスの属国であったことは変わらない。今回の件でミルフォスとの関係が明るみ出たことはすぐにでもエプリトに伝わるだろうな。下手すれば、全面戦争へ突入する可能性だってある。東側の連中は南との関係を極力嫌い、武力を重んじるエプリトは荒くれ者の集まりらしいからね。それに、あの子だってあの見た目だもの、引く手あまただろう。いつ誰と婚姻するかなんてわからないぞ」
ようやく自分の本当の気持ちに気付いたところで、一方的な片想い状態であることに変わりはない。
一度はシキを迎えに行って拒絶されているのである。
「その時は、現実を受け入れる覚悟はできている。綺麗さっぱり忘れて、お見合いだろうが、政略結婚だろうが、アラミスの望むような相手を見つけるよ」
ヒロは湖を眺めながら、そうカイに本心を伝えたのだった。
慌ただしくグラデスが故郷に帰った翌日、つまり婚姻解消された結婚式の翌日のことである。
朝早く、部屋の扉を小さくノックする音が聞こえたので、椅子に掛けてある、フィッシャーを肩から羽織りユイナは警戒するように扉を開けた。
「やあ、おはよう! 昨日は大変だったけど、さすがだね。完璧に準備が整えられている、淑女の鑑だ。俺とヒロは朝が弱いけど、たまにはいいものだね、早起きするのも。朝食を持ってきたから一緒に食べようよ。ヒロはひどい二日酔いで、起き上がることも出来ないって」
カイが朝食をワゴンに乗せて扉の外で立っているらしいのだ。
いつもならとっくに侍女が用意を整え、起きてこないヒロの横の席で朝食をとっている時間である。
昨日の今日で、婚約者扱いされるよりはましだが、朝が弱いのに、どうしてこんな朝早く自室に来るのだろうか。
ユイナはうまく断る口実が見つからず、「では中に運んでちょうだい」としか言えなかった。
慣れた手付きでカイはユイナの朝食の支度をしている。
そしてユイナの隣に座ると明らかに、自分のカップにはお茶だけを注いだ。
「お茶だけ? 一緒に食べるのではなかったの?」
「それは口実。二人きりになるためのね。でも安心して、長居はしないから。淑女の部屋に上がり込んだと、侍女たちに変な噂を立てられたくないし」
嫌な予感は的中した。
早起きしたのも、その為だったのか。
ユイナがそう思っていると、カイはお茶を味わうようにごくりと飲み込み、すぐにカップを四方八方から眺めている。
「今になって思えば、こんな場所で優雅に朝からお茶を飲んでいるのも、昔では考えられなかったなあ。あの頃は、兄弟三人生きていくのに精一杯で、持っていた木の実を食べて飢えを凌いでいたっけ。ある意味、ヒロのお陰だな」
昔を懐かしむようにしみじみと語るカイは思い出し笑いをしている。
しかしすぐに真顔に戻ってしまった。
「俺たちは此処に来る前、白い頭巾を被り情報屋として活動していたんだ。だから昨夜は我が目を疑ったよ。だってその白い頭巾が侍女と一緒に城の裏口から入ってきて、君のもとへ向かうんだもの。そして君は婚姻解消に必要である重要な証拠を提示した」
ユイナはその言葉に全身が凍り付いた。
必ずや力となるであろう、ある組織の名とその本拠地の場所が示された地図。
諜報活動を行うその組織に、ヒロたちが属していたとは寝耳に水のことだった。
いやそもそも、腹の探り合いばかりで、過去のことにはお互いに触れていない。
それがこんなところで影響を及ぼすとは。




