鉄壁の要塞
彼女は脚につけられた小さな筒から通信文を取り出し、表情を変えることなく一読する。
「通信文は何と書かれていたのですか、王女様?」
声を出したのは、輿入れの際、唯一ミルフォスから同行を許されたマリカル専属の侍女である。侍女は二人きりの時だけは、王女という敬称を使用する。
マリカルより一回り年上の彼女は、マリカルと似たような灰色の服に、頭に白い布を被り、どことなく落ち着かない様子だった。
「父がエプリトを見限ったわ。明後日グラデスが私の許嫁だった王太子の元へ嫁ぐみたい。今晩、迎えの馬車を寄越すからフリンを連れてエプリトを脱出せよとのことよ」
「それはよろしゅうございました。ここに送り込まれてから約四年間、下賤な荒くれ者達に囲まれ、王女様は侍女のように働かされて、どれ程悔しい想いをしてきたことか。それに見限ったことが彼らの耳に入ろうものなら我々の命も危のうございます。幸いにもアーロン殿はバミルゴに行って不在ですし、早急に準備いたしましょう」
「武力を重んじるエプリトは、アーロン不在でも領民達が絶えず目を光らせる鉄壁の要塞。恐らく、領門まで迎えに来た馬車に乗り込む機会は一度きりだわ。そこまで無事に辿り着けるかどうか」
エプリトに同行を許されたマリカルの侍女は剣術に長けた護衛役である。
いざという時に備えて、懐に小刀を忍ばせてあるからと不安そうなマリカルを元気づけた。真夜中までに脱出の準備を整え、侍女は眠っているフリンを抱くとマリカルを庇うように屋敷を後にした。
三人は真っ暗な畑の中を慎重に歩き進む。
真夜中とはいえ、領民たちは女子供も含めて、このエプリト領を守るために自己研鑽を怠らない。
不穏な動きを察知すれば、寝所からでもいの一番に飛び出して来ることだろう。
畑の周辺の雑草に身を隠しながら領門近くまで来た時のことだった。
「……かあさま、ここはどこですか?」
フリンが目をこすりながら、マリカルに声をかけたのである。
これには二人とも心臓が飛び出るほど驚いた。
夢見が悪く、ぐずって泣き出したりでもしたら領民たちに見つかってしまう。マリカルは咄嗟に侍女から奪い取るようにフリンを抱き上げる。
「ここは永遠に続く、夢の中ですよ。さあ、かあさまと一緒に良い夢をみましょうね」
そう言って、細い腕でフリンのことをしっかりと抱き締め、頬にチュッとキスをした。
フリンも母の柔らかなぬくもりを確認し、安心するとマリカルにしがみ付いたまま再び眠ってしまった。
フリンが目を覚さないようにマリカルは息子をその腕に抱き、草叢の中を進んで行ったが、不審者の侵入を防ぐ為に訓練されている番犬の一匹が不穏な気配を感じてけたたましく吠え始める。するとその一匹の吠え声を聞いて他の番犬も騒ぎ出した。
仕舞いには騒ぎを聞きつけてあちこちで家の灯りがぼやっと灯されたのだ。
「番犬に気づかれてしまった、王女様走りますよ!!!」
侍女は懐の小刀を抜こうとしたが、マリカルに止められる。
そしてフリンを抱くようにとマリカルは静かに仕草を送った。
こうして三人が唯一の門に辿り着いた時には、領民たちは手に松明を持ち、番犬とともに不審者の行方を追っている。
しかし肝心のミルフォスからの馬車が到着していなかったのだ。
「王女様、も、もう間に合いません。ほらあんなに近くまで松明が。見つかれば連れ戻されてしまいます。それにアーロン殿が不在でも、領主やエプリトを裏切ったと領民に何をされるか……」
小刀一つで何もできないことがわかると、侍女は不安そうな顔して声を詰まらせた。
「諦めては駄目よ。迎えは必ず来るわ」
マリカルはそう励ますと、フリンを抱いた侍女を庇うように前に立ち、松明の灯りを見ていた。
最初は遠くの方にぼんやり蛍のように見えた灯りも、番犬の吠え声とともに大きく、数も次第に増えていく。
「いたぞ! 不審者はあそこだ!」
領民の一人が遠くから大声を挙げた。
その声を聞いて松明は一つの大きな塊となった。
万策尽きたかと思われたが、領門の向こう側に広がる森の方から、粗末な馬車が急ぎこちらに向かってくる。
あまりにも飛ばしすぎていたため森を抜けて領門までのカーブを曲がり切れないのではと思うほど、キャリッジに遠心力がかかっている。
真っ黒な馬車は領門に立つマリカルたちの前で突然急停車した。
「マリカル様! 遅くなり申し訳ございません。森で倒木が道を塞ぎ到着が遅れました。早く乗り込んでください、向こうに見える追っ手の数が尋常ではない!」
中年の御者は遅くなったことに自責の念を感じているようで、詫びの言葉が微かに震えていた。
侍女がフリンを抱いているため、マリカルが馬車のドアを勢いよく開け、「さあ、早く乗り込みなさい!」と侍女に向かって叫んだ。
「いえ、私が先に乗ることはあり得ません。ここは先に王女様が乗り込んでください」
「フリンを抱いているあなたが先よ。私は後から乗り込むから」
王女にそう言われて、侍女は遠慮勝ちに馬車の扉に向かった。フリンが起きないよう扉を潜る時も彼の頭をぶつけないよう慎重に乗り込む。
そしてようやく座席の奥に坐った時、バタンとマリカルはいきなり扉を思いっきり閉めたのだ。




