血判状
ミルフォスはパシャレモの川を挟んだ東側に位置する。
国王が病に倒れてからは、国を維持するため、毒物の研究活動に力を入れていた。しかしその頃は比較的平時状態が続いていたため、需要が少なかった。打開策として王女であるマリカルを降嫁させることで、豪族との軍事的な連携を目的とした盟約を結んだのである。この婚儀によりアーロンは正式に領主としての地位を獲得した。
「陛下! お気を確かに持ってください!!」
長きにわたり王を支えてきた側近たちは耳元で静かに話しかけている。
瞼が閉じかけ、居合わせた誰もが、王の死が近づいたと考えていた時のことである。
王はゆっくりと再び目を大きくと見開いたのだ。
「目を覚ましたぞ!」
最初に気が付いた医師は大慌てで脈をとり、次に瞳孔を確認しようとしたが、王はその手を払いのける。
そして死の淵から生還したことに驚いている側近たちを前にしてこう呟いた。
「………直ちにエプリトにいるマリカルを夫と離縁させ連れ戻せ。ようやく決心することが出来た。……あの血判状を使う時がおとずれたのだ、今すぐグラデスを枕元に呼べ……」
グラデスはその話を聞いた時、錯乱状態に陥った老人の戯言だと思っていた。
しかし王しか知らなかった血判状の存在が明らかとなり、枕元に呼ばれたということはついに自分も姉マリカルと同じ運命を辿ることを悟った。
国内の情勢が不安定化しているこの国の王子はまだ十歳にもならない。
四年前、国王は苦肉の策として長女であるマリカルをエプリトに送り込んだ。特に保守的である国王が平民上がりの豪族と娘を貴賤結婚させること自体、正気とは思えなかったが当時は婚約者も行方不明であったため仕方がない。
そしてついに王太子が発見され、東側で抜きん出た存在になっているのならば、血判状を使って姻戚関係を結ばせるのは理に適っている。
娘など父にとっては、政略結婚の道具にすぎず、それが過去に敵対していた相手国の王太子であったとしても、娘がその国でどのような仕打ちを受けるかなど関係ないのだ。
商売としては成り立たなかったが、毒物の研究は王女たちに受け継がれ、姉妹揃って必要な知識だけは研究者並みであり、何か不都合なことでもあれば、嫁入り道具のひとつとして持参した毒物で対処しろと教育を受けていた。
「………承知いたしました、お父様。これまで慣れない領地で耐え忍んできたお姉様に代わり、次は私が立派に御役目を果たしてまいります」
グラデスはマリカルと同じ薄い菫色の瞳で、骨と皮になってしまった年老いた父を冷たく見下ろした。
父は待望の王位継承者である王子以外には全く無関心だった。
従って娘を呼び出すのは、当事者の意思とは無関係に国の利益のため、政略結婚させられる時が来たということである。
こうしてその日のうちに、血判状を携えた使者は川を越えて西へと向かった。
そしてこの血判状がミルフォスの姉妹だけでなく、周囲の人々をも巻き込んでいくこととなるのだった。
血判状を見たパシャレモの宰相アラミスは、やり場のない怒りに震えていたという。
しかし彼が国王の懐刀とまで呼ばれた有能な人物であり、ここで使者を斬ったところで、現状は何も変わらないと、なんとか自分を律したのだ。
「………これはえらいことになった。私がミッカ様たちを御救いするためにパシャレモに戻った後、陛下が最期にあのような血判状を書き残していたとは」
顔色も冴えず、悲しみに打ち沈むアラミスは椅子に座ったまま、頭を抱え込んでいる。
宰相補佐として同席したカイはそんなアラミスに向かって不安を取り除く言葉しかかけられない。
「無理やり書かされた可能性も否定できないけど、純粋に親が子を思う気持ちだったんじゃないかな。血判状に従えば王太子の命だけは救われるのだから」
「カイは温かい見方をするね。仮にそうだとしても私はとても殿下に伝えることが出来ない。ミッカ様や陛下を死に追いやった国だ。そんな国の王女となんて……」
ミッカをこよなく愛していたアラミスがこの事実をヒロに伝えることは身を切られる思いなのだろう。
いつもは有能なアラミスが全くの予想外の出来事により、苦しむ姿に胸が痛んだカイは、「いいよ。俺がヒロに話す」とこの任務を買って出たのである。




