リアン
永瀬千翔はいつも孤独を感じていた。
幼い頃に交通事故で両親を亡くし、父方の祖父母の家に引き取られたのはいいが、祖父母と父は仲が悪かったため、その時初めて会った孫にどう接していいものか分からないようだった。それは千翔も同じで初めて会った祖父母に対し、甘えたりすることもなかった。
もともと内気な性格の千翔は、転校先の小学校にも馴染めず、いつも一人だった。
それでも、千翔は寂しくなんてなかった。両親が死んでしまったのはとても悲しかったが、千翔には三歳の頃からずっと一緒に過ごしているクマのぬいぐるみの「マーくん」がついているから平気だった。これは動物園に行った時に、父に買ってもらったもので、母が編んでくれたニットのセーターを着ていた。千翔はマーくんがいる限り、寂しくなんてなかった。
ある日、帰りの会での出来事だった。
「二週間後に遠足があるのは、みなさん知っていますね? 今日はその班決めをしましょう」
その先生の一言で、教室は一気に騒々しさを増した。男女混合の班ということで、好きな子と同じ班になろうと奮闘したり、いつも一緒にいるグループでは人数が合わず、もめているグループがあったりと、大騒ぎだった。千翔は馴染めないながらも、グループに入れてもらおうと勇気を振り絞り、隣の席の三上紗理奈に声をかけた。
「あの、三上さん。僕もグループに入れてほしいんだけど」
しかし紗理奈からの反応はなく、聞こえなかったのかも、と千翔がもう一度声をかけようと口を開きかけたとき、紗理奈の前の席の斎藤陸が声をあげた。
「おい、永瀬くんが話しかけてるのに無視すんなよ。かわいそうだろ」
「えー。だって永瀬くん、いつもクマのぬいぐるみ持ってて、なんか気味が悪いんだもん」
「しょうがないだろ。永瀬くんはいろいろ事情があるんだって、先生が言ってたじゃん」
陸と紗理奈が言いあっている声を聞きながら、千翔は意識が遠ざかっていくのを感じた。「かわいそう」。それは千翔が両親を亡くしてから、嫌というほど言われた言葉だった。千翔はその言葉を言われるたびに、なんだか孤独が深まっていくような、そんな気がした。
「永瀬くん!」
焦るような陸の声を聞いて、千翔は自分が倒れたのだと気がついた。
夢を見た。保健室のベッドで寝ている千翔に、マーくんが優しく語りかけてくれている夢だった。
『ちーくん、大丈夫だよ。僕がいるからね。ちーくんは一人じゃないよ。僕がいるからちーくんはかわいそうなんかじゃないんだよ』
千翔が目を覚ましたとき、千翔の目から一粒涙がこぼれた。そこは保健室で、マーくんは夢と同じベッドのわきに置いてある椅子に、千翔を見守るように座っていた。ちーくん。それは、亡くなった母が千翔を呼ぶときのあだ名のようなものだった。
「あら。永瀬くん、起きた?」
千翔は一時間ほど眠っていたようだった。
「もうすぐ暗くなるし、先生が送っていきましょうか」
「ありがとうございます。でも、大丈夫です」
まだ空は明るかったし、誰かを頼るということに千翔は慣れていなかった。
「先生、さようなら」
千翔はマーくんをしっかりと抱きしめ、家へ帰った。
その日から、よく夢にマーくんが出てくるようになった。夢の中でマーくんと過ごす時間はとても楽しく、千翔はマーくん以外に友達なんていらないと、そう思うようになっていった。
『僕がいるから一人じゃないよ』
数年後、千翔は高校生になっていた。
「千翔! おはよう」
「……」
「おい、無視すんなよ~」
千翔が学校への道を歩いていると、陸が話しかけてきた。
あの日、千翔が倒れたことになにか責任でも感じたのか、陸はよく千翔のそばにいるようになった。千翔がどれだけ無視をしても、陸はあきらめなかった。いつの間にか下の名前で呼ぶようにもなっていた。
「……何回も言ってるじゃん。俺はマーくん以外に友達はいらないの」
「昔は自分のこと僕って言ってたのに、今では俺って言うようになっちゃって。そんな子に育てた覚えはないぞ」
「育てられた覚えはないからな。お前だってそんなキャラじゃなかっただろ」
「まあ、いろいろあるんだよ。俺にも。てか真面目な話、千翔がそんなことになったのってあの日のせい、だよな」
陸は急に真剣な顔をして言った。
確かに、あの日を境に千翔の友達に対する考えは変わったかもしれないが、別に陸には関係なかった。事あるごとに、同じことを聞いてくる陸にうんざりしながらも、千翔は首を振って否定の意を示した。しかし、陸はなかなか納得がいかないようだった。
「俺はいつでも千翔の味方だからな。頼ってくれよ」
陸は千翔の肩をぽんと軽くたたくと、「俺、今日、日直だから」と学校へと走っていった。
高校生になった今でも、陸はあの日のことに罪悪感を抱いているようだが、そんなもの気にしなくていいのにと千翔は思った。友達なんてマーくんだけで十分なのだから。
――この頃からだろうか。年を重ね、いわゆるイケメンへと成長した千翔は、女の子によく声をかけられるようになった。昔は気味悪がられたマーくんも、ギャップ萌えということで許されるようになっていた。千翔はそれが不思議で仕方なかった。
どうしてこの間まで気持ち悪いと言っていたのに、急に好きという感情が芽生えるのか、どんなに考えても分からなかった。そもそも千翔には、好きという感情が理解できなかったのだ。いや、正確に言えば「好き」という感情自体は理解できた。千翔は、優しかった両親のことが今でも大好きだし、もちろんマーくんのことも大好きだった。しかし、それは血がつながっている家族だったり、小さい頃からの友達であるマーくんだからであって、よく知らない赤の他人を好きになる気持ちが理解できなかったのだ。
「永瀬くん、今いいかな?」
その日の昼休み、千翔は全く知らない女の子に中庭へ呼び出された。本当は行きたくなかったが、ご飯は食べ終わっていたし、周りからの行けという圧がすごかったので、千翔はしぶしぶ行くことにした。
女の子との話を終えて千翔が教室に戻ってくると、なぜか興奮した様子の陸が千翔を待ち構えていた。
「千翔、やるじゃん! あの子、去年ミスコン準優勝の子だよ。告白だったんだろ。OKしたのか!?」
目をキラキラさせて聞いてくる陸に、初めはスルーしていたが、放っておいたほうが面倒くさいと気づき、千翔はしょうがなく答えることにした。
「……断ったよ」
「え! なんで!」
「だって知らない子だし、俺はあの子のこと好きじゃないから」
「もったいねえ。俺だったら即OKするのに」
「俺は彼女も友達もいらないんだよ」
「マーくんがいるからってか」
千翔が言うより先に陸がそう言い、千翔が抱えているマーくんを撫でた。
「……マーくんに触らないで」
「おっと、悪い。……いつかマーくんよりも好きって言ってもらえるような友達目指して頑張るよ」
「そんな日は一生来ないよ」
あの事件が起きるまで、千翔は本気でそう思っていた。
「永瀬くん、今いいかな?」
一か月後、いつか聞いたような言葉でまた千翔は呼び出された。しかし、今回は知らない女の子ではなかった。
三上紗理奈。千翔が倒れたあの日、千翔のことを「気味が悪い」と言った女の子だった。紗理奈は長い黒髪が綺麗で、くりっとした目が特徴的な誰が見ても可愛い見た目をしていた。
千翔が紗理奈に連れられて中庭まで来ると、なぜか人がたくさんいた。いつもの流れから告白だろうと思っていた千翔は、あまりの人の多さにこれからリンチでもされるのかと少し不安に思った。
「ごめんね。どこかから話が漏れたらしくて、こんなに人が集まっちゃったけど、あまり気にしないで」
気にしないでと言われても、さすがに気になる。千翔は居心地の悪さを感じながら、紗理奈の次の言葉を待った。
「好き、なの。付き合ってくれないかな」
「ごめんなさい」
即答だった。紗理奈は自分が断られることなど予想していなかったらしく、驚いたように目を見開き「なんで」と呟いた。
「……いや、逆になんで? 小学生のとき、俺のこと気味が悪いって言ったよね」
その言葉に、紗理奈は千翔の腕の中のマーくんを見つめながら、「いや」とか「だって」とか、いろいろと呟いていたが、急に大きな声で叫んだ。
「確かにマーくんだかなんだか知らないけど、ぬいぐるみをこの歳にもなっていつ何時も手放さないのは今でも気味悪いわよ! でも永瀬くんは顔だけはいいし、去年ミスコンでグランプリを取った私の隣にいても違和感ないじゃない! この私を振るなんて信じられないわ! あとになって後悔しても知らないんだからね!」
紗理奈はそう言い捨てると、千翔をその場に残して去っていった。
目撃者が多かったため、千翔が紗理奈を振ったという噂は瞬く間に学校中へと広まった。
「準グランプリもグランプリも両方振るとはねえ」
校内で人気が高かった女の子二人を振ったぬいぐるみ男子として、千翔は一躍有名になってしまった。
「千翔はあんまそういうの知らないと思うんだけど、紗理奈って親衛隊とかもあってさ。結構過激なファンがいたりするから、気をつけなよ」
「大袈裟だな」
千翔は陸の言葉をなんとなく聞きながら、面倒くさいことになったなと考えていた。
「永瀬千翔! 死ね!!」
紗理奈の告白を断ってから一週間後、学校からの帰り道に男が襲ってくる姿を見て初めて、千翔は陸の忠告は大袈裟ではなかったのだと知った。
ナイフを片手に襲ってくる男を間一髪でよけた千翔だったが、少し腕をかすったようで、腕からは血が出ていた。
「待って。落ち着いて」
「うるせえ! 前からぬいぐるみ持ち歩いてて気持ち悪いと思ってたんだよ。それなのに女子にモテやがって、しかも三上さんの告白を断るなんていい度胸じゃねえか。ぬいぐるみがないと、生きていけない女々しい奴のくせに調子乗ってんなよ。大体千翔って名前も女みたいで気持ち悪いんだよ!」
途中までは、まだ我慢できたが名前をバカにされるのは許せなかった。
「……最後の名前をバカにしたことだけ謝って」
「は? 頭湧いてんのか?」
「訂正しろよ。俺の名前は父さんと母さんがつけてくれた大事な名前だ。謝れ」
「うるせえ! 気持ち悪いんだよ!」
名前をバカにされ冷静さを失っていた千翔は、再び襲ってきた男をよけるのが少し遅れてしまった。
刺される……! 千翔はそう思い、目を閉じ、そのまま意識を失った。
千翔が目を覚ますと、そこは病院だった。
「千翔! 目を覚ましたか! よかった……」
陸は、ずっとそばにいてくれたようだった。
「あれ、痛くない……?」
千翔は刺されたと思ったお腹をさすってみたが、無傷のようだった。
「あ、マーくん、マーくんは!?」
病室を見渡すかぎり、マーくんの姿はどこにもなかった。
「マーくんな、今警察のところにいるんだ」
「けい、さつ?」
「お前を襲った男が持っていたナイフがマーくんに刺さったから、証拠品として一応調べるらしい」
「マーくんにナイフが」
マーくんは大丈夫だろうか。きっと痛かっただろう。自分のせいでマーくんが。いろんな感情が渦巻き、パニックになりかけた千翔をなだめるように、陸は話を続けた。
「マーくん、きっと千翔のことを守ってくれたんだな。警察が現場に来るまで、マーくんのお腹に刺さったナイフが抜けなくて、男は千翔を刺すことができなかったと供述している。警察が到着して、男を拘束したとたん、抜けなかったのが嘘のようにあっさりと抜けたらしい」
千翔はその話を聞いて、マーくんを早く迎えに行かなきゃと、そう思った。
「マーくん……」
陸に安静にしないとダメだと諭され、すぐ迎えに来ることができず、一週間ぶりに再会したマーくんは変わり果てた姿になっていた。
白いふわふわの毛は黒く汚れ、母が編んでくれたセーターは破れ、お腹には大きな穴があいて綿が飛び出している。
今すぐにでも直してあげたかったが、千翔は裁縫が得意ではなかったし、祖母に頼むのもなんだか気が引けた。千翔がどうしようかと悩んでいると、一緒に来てくれていた陸が言った。
「うちの妹、裁縫得意だから頼んでみようか?」
千翔は誰かを頼ることが苦手だった。しかし、その時だけは頼ってみようと思った。
陸の妹は快く引き受けてくれた。
「うん。これくらいだったら、ちょっと時間かかっちゃうけど直せますよ」
「よかった……。お願い、します」
千翔は「直せる」という言葉を聞いて、身体の力が抜けたようだった。
陸の妹は千翔からマーくんを受け取ると、ふふっと嬉しそうに笑った。
「お兄ちゃん、家に友達呼んだの初めてなんです。仲良くしてあげてくださいね」
「ちょっ、舞、余計なこと言わなくていいから!」
陸の妹――舞は「はいはい」と言いながら、自分の部屋へと戻っていった。
「陸ってもしかして友達いないの?」
「うるせえ。別に……って、待って。今、初めて俺の名前呼んだよな!?」
「そうだった?」
「そうだよ!」
「しょうがないから、そろそろ友達になってあげようかなって思ってさ」
「え……めちゃくちゃ嬉しいけど、急にどうしたんだよ」
陸がそう聞くと、千翔はしばらく黙り込んだあと、こう言った。
「あのとき、刺されたと思ったとき、マーくんが動いて俺をかばってくれたような気がしたんだよね。そのときに『ちーくんはもう僕がいなくても大丈夫。もっと周りに頼ってもいいんだよ』って声が聞こえたから、まずは陸に頼ってみようかなって」
「……そっか。マーくんのおかげか」
陸はマーくんのいる舞の部屋をちらりと見たあと、千翔の肩をぽんとたたいた。
「友達になった記念に飯食いに行こうぜ」
千翔は陸に引っ張られながら、久しぶりに笑みを浮かべた。
リアンはいつも孤独を感じていた。
動物園のお土産屋さんに売られていたクマのぬいぐるみのリアンは、なかなか買い手が現れず、売れ残っていた。他のぬいぐるみたちと同じような白いふわふわの毛に、まんまるのつぶらな瞳をしているのに、少し鼻が曲がっているだけで、皆「かわいくない」だの「ぶさいく」だのと言って買ってくれないのだった。
リアンはいつしか買われることを諦めていた。
しかし、そんな時だった。
「かわいい」
リアンに初めてそう言葉をかけてくれた少年がいた。
「かわいい。パパ、僕この子が欲しい」
「クマのぬいぐるみか。いいぞ」
「あら、千翔。その子鼻が少し曲がっちゃってるけど、本当にその子でいいの?」
どうやら少年は千翔というらしかった。母親がリアンの鼻に気づき、どうせまた取り換えられるのだとリアンが諦めかけたとき、千翔が言った。
「いいの。この子がいい。この鼻がかわいいんだよ」
ずっと気にしていた鼻を褒められて、リアンは凍った心が溶けていくような気がした。
千翔はリアンを「マーくん」と呼んだ。千翔の母親は緑の可愛いニットのセーターをリアンに編んでくれた。今までの孤独が嘘のように、リアンは幸せだった。
ある日、ピクニックに行った帰りのことだった。
「今日も楽しかったわね、千翔。……って、あら。寝ちゃってるわ。ふふっ、大事そうにマーくん抱えてかわいいわね」
「千翔がそんなに気に入るとは思わなかったよ」
千翔の両親がそんな和やかな会話をしていた次の瞬間、突然トラックが飛び込んできた。
「うわっ」「きゃあっ」
急なことで、避ける暇もなかった。両親は即死だった。後部座席に座っていた千翔は奇跡的に助かったが、独りぼっちになってしまった。
疎遠だった祖父母に引き取られた千翔は、だんだんと笑顔を失くし、大人しい静かな子供になってしまった。
リアンは自分を孤独から救ってくれたこの子供を、今度は自分が救ってあげなきゃと、そう思った。しかし、ぬいぐるみの身でできることは限られていた。リアンにできることは、夢の中で語りかけることだけだった。
『ちーくん、大丈夫だよ。僕がいるからね。ちーくんは一人じゃないよ。僕がいるからちーくんはかわいそうなんかじゃないんだよ』
しかしこの言葉によって、千翔は逆にリアンがいれば他に友達はいらないと考えるようになってしまった。本当は友達を作ってくれた方がいいのだが、自分がそばにいることで千翔の孤独が少しでも和らぐなら、今はこれでいいかとリアンはそう思った。しばらくの間、千翔の唯一の友達でいてあげようと、そう思っていた。
だが、さすがに千翔が高校生になると、そうも言っていられなくなってきた。リアンは千翔が自分の存在を言い訳に、一生友達を作らなかったらどうしようと考えるようになっていた。
「千翔! おはよう」
小学校の頃から、なにかと千翔の周りをうろついている陸という少年が千翔の友達となって、千翔を支えていってくれればと思っているが、千翔はかたくなに陸を友達だとは認めなかった。
「マーくんがいてくれるだけで、俺は幸せなんだよ」
それが千翔の口癖だった。
千翔は気にしていないようだったが、リアンの存在によって千翔が「気持ち悪い」とか「気味が悪い」と言われていることに、リアンは少なからず罪悪感を覚えていた。
千翔は女の子に告白されることも多くなり、リアンは彼女ができればまた昔の明るい千翔に戻るかもしれないと期待したが、千翔が彼女を作ることはなかった。どうやら千翔には、誰かを好きになるということが分からないようだった。
そんな矢先のことだった。千翔が振った女子の親衛隊に所属していた男が、千翔を襲ったのだ。
リアンは、なんとしてでも千翔を守らなければと思った。千翔が死んでしまったら、自分はまた独りぼっちになってしまう――。そこまで考えて、リアンは、はっとした。今のままではいけないと思いつつも、千翔に依存していたのは自分の方ではなかったのか、と気がついた。
リアンは力を振り絞り、男の持っていたナイフをお腹で受け止めた。
『ちーくんはもう僕がいなくても大丈夫。もっと周りに頼ってもいいんだよ』
今まで自分に幸せをくれたこの子供に、今度こそ恩返しをしなければいけない。
男は、リアンに刺さったナイフをどうにか抜こうともがいていたが、リアンは頭を引っぱられても、踏んづけられても、絶対にナイフを離さなかった。
その後、警察が到着し、男は逮捕された。よかった。自分は千翔のことを守れたのだと安心したら、なんだか眠くなってきた。リアンは少しの間、眠ることにした。
リアンが目を覚ますと、そこは見知らぬ場所だった。
「うん。これくらいだったら、ちょっと時間かかっちゃうけど直せますよ」
「よかった……。お願い、します」
初めて聞く女の子の声と、千翔の声が聞こえた。
どうやら、この女の子がリアンのことを直してくれるようだった。
安心と心配が入り混じったような顔をしている千翔を見て、なんとなくもう大丈夫だと、そう思った。少し眠ったものの、動いたり刺されたりして体力の消耗が激しかったリアンはもうしばらく眠ることにした。
ああ、愛おしい千翔。泣かないで。今度目を覚ましたときは、笑っている顔を見たいな……。
リアンは眠さで朦朧とする意識の中でそんなことを考えていた。
次にリアンが目を覚ましたとき、一番初めに目に飛び込んできたのは、赤ちゃんの顔だった。赤ちゃんは、ご機嫌な様子でリアンの腕をしゃぶっている。リアンのお腹にあいていた穴はすっかり閉じられ、破れていたセーターもかわいい桜のワッペンが貼られ、きれいに直されていた。
「あー! パパ! 望結ちゃん、またマーくんの腕食べてる!」
「うわ、望結、ペッ、ペッしなさい」
聞こえてきたのは元気な男の子の声と、懐かしい、千翔の声だった。
「望結のおかげで何回洗濯しても、マーくんべたべたにされちゃうよ……」
「ふふっ。パパに似てマーくんのこと好きなのね」
そしてこの声は、眠る前に聞いた女の子の声だった。
「たっくんもマーくんのこと好きだよ!」
「そうだね。拓也の望結もマーくんのことを気に入ってくれて、パパ嬉しいよ」
どうやら、リアンは本当に長い時間眠っていたようだった。千翔は陸の妹である舞と結婚し、二人の間には拓也と望結が生まれていた。
千翔の柔らかく笑っている顔を見て、リアンはあの時、もう大丈夫だと思った自分の直感は間違っていなかったと確信した。
今の千翔には孤独なんて言葉は似合わない。とても幸せそうだと思った。
「おい! 今日動物園行く約束だったよな!」
突然ドアが開き、陸が姿を現した。
「うわあ。うるさい奴が来たよ」
「うるさい奴ってなんだよ。これでも一応お前の義兄だぞ」
「え、俺と陸って友達じゃなかったんだ……」
「いや、友達! 友達だけど!」
陸とじゃれ合い、楽しそうな千翔の姿を見て、リアンは心の底から嬉しかった。
今の千翔には、友達も愛する家族もいる。笑顔も愛も忘れてしまった子供は、もうここにはいないのだ。もう自分は千翔には必要ないのだと、少し寂しく思っていると、千翔がおもむろにリアンを抱き上げた。
「マーくんの彼女探しに行こうね」
「千翔、それ本気で言ってたのかよ」
「だって、最近望結にマーくん取られてばっかりで寂しいんだもん」
千翔のその言葉を聞いて、自分はまだ千翔に必要とされているのだとリアンは嬉しくなった。この子は一体どれほどの幸せをくれるのだろう。
千翔たちは、今から買いに行く新しいぬいぐるみについて盛り上がっているようだった。
リアンは千翔たちに、昔の千翔の両親と千翔の姿を重ね、今度こそ守ってみせると強く誓った。
『ありがとう、千翔。大好きだよ』
リアンがついこぼした言葉に、千翔が反応するように動きを止めた。
「どうしたんだ?」
そんな千翔の様子に、陸が怪訝そうに声をかけた。
「いや、なんかさ。久しぶりにマーくんの声が聞こえたような気がしたんだ」
千翔はそう言うと、抱きかかえていたリアンを目線が合うように持ち上げ言った。
「俺もマーくんが大好きだよ」
そう言った千翔の笑顔は、今までで一番輝いていた。
今は、千翔もリアンも、孤独など一切感じていない。
リアンというのはフランス語で「絆」という意味です。