【第7話】逃げる
「あたし、どれくらい寝とった?」
山陽本線は平日だというのに、わりあい混んでいた。どの席にももう先客がいて、二人は立っているしかなかった。
「乗ってからわりとすぐでしたし、三〇分ぐらいじゃないですか」
「なんで起こしてくれんかったん?あたし、列車が走ぃとるときは、なるべく寝ぇへんようにしとんのに」
「すいません、あまりにも気持ちよさそうに寝ていたもので……」
「神戸線の神戸―明石間は、大阪湾沿いを走んの。太陽に照らされて輝く海を見たかったんやけどなぁ」
佳織が妬ましさ半分で、梨絵を見ると、口が小さく開いていた。目も少し見開かれていたので、どうやら梨絵も大阪湾を見ていないらしい。
スマートフォンを見ていても、よほど集中しない限り、正面の海は目に入る。わざわざそちら側の席を選んで座ったのだ。ということは、梨絵も一緒に寝ていたということか。
一瞬頭に血が上りそうになったが、わざわざ目くじらを立てるようなことではないなと、佳織は思い直した。
姫路―岡山間の山陽本線は、比較的山間を行く。相生までは住宅街もあるが、相生を過ぎてからは降車客も減り、車内の光景はさほど変わり映えしなくなった。
二人はなかなか座ることができなかった。この区間は、山陽本線の中でも最も本数が少ない。なので、一本の電車に乗る人数は自然と多くなる。夏休みを利用してきたと思われる、大学生らしき乗客もちらほら。梨絵は、少し辟易した。
生じた疑問を、佳織にぶつけてみる。
「門司さん、どうして山陽新幹線に乗らなかったんですか?」
「山陽新幹線は半分ぐらいがトンネルで、海沿いはなかなか走らんのよ。せやから、海が見える神戸線に乗ろう思うてたのに、あんま意味なかったなぁ」
佳織が正答を返したことで、会話は終了してしまった。これはマズい。落葉樹ばかり続く車窓も、スマートフォンでSNSを見るのも、飽きてきた。
梨絵はある種の切迫感に駆られて、再び話を切り出した。
「門司さんって、広島に行くって言ってましたよね」
「それがどうかしたん?」
「広島に行って何するんですか?」
「そんなら逆に聞くけど、自分は何したいん?広島行くいうとったけど、あたしについてきてどうしたいん?」
「それは……」
梨絵は口ごもってしまう。佳織はあっけらかんと、笑ってみせた。
「冗談やって。彼に会いに行くんや。あたしは大阪に住んでねんけど、彼は広島に住んどって。彼が去年、仕事の都合で引っ越してんけどね、『しばらく生活が落ち着くまで待ってくれや』て。で、ようやく落ち着いてきたいうから、明後日久々に会うんよ。あっ、写真見るか?」
佳織は頼まれてもいないのに、スマートフォンをタップした。画面に伊藤とのツーショット写真が映る。
黒い髪はどちらかというと茶色っぽく、視線は柔らかい。梨絵の目には伊藤は、真面目な好青年のように映った。大きな地球儀をバックに二人ともピースサインをしている。満面の笑みの佳織。気持ちが華やぐような、色恋のただなかにいるのだろうと、梨絵は感じた。
「シュッとしとるやろ?この見た目で、けっこう押しが強いとこあってなぁ。初めてのデートんときも、手ぇつないで引っ張ってくれて。びっくりしたわ」
「かっこいいです。彼氏さんも門司さんも。羨ましいです。それに比べて私なんて……」
梨絵は、伏し目がちに俯いた。枯れた花のようにうなだれている。
「自分も十分、綺麗やろ。落ち込まんでもええやん」
佳織は思わずフォローに入った。だが、その的外れなフォローは、フォローにはならなかったらしい。
「私なんてダメですよ。異性との付き合いから逃げてばっかりで。不快にさせたらどうしよう。怒らせたらどうしようって、何も喋れずじまいで。そうやって逃げ続けて、気づいたらもうこんな年になってしまいました」
「こないな年って、自分まだ若いやん。これからなんぼでも取り返せるて」
「いや、もうダメなんです。ここまで来たら人の性格なんてそう簡単に変わらないですよ。きっとこれからも、人から逃げ続けて、一生まともな人間にはなれずに終わってしまうと思います。今ここにいるのだって、逃げ出してきた結果なんです。人から、環境から、そして自分から。立ち向かうこともせずに、簡単な道ばっかり選んで。本当に救いようのない、ダメ人間ですよね」
つり革を掴む、梨絵の右手が揺れる。
「それはちゃうって。人間、ときには逃げることも必要やろ。自分を保つためには」
「気遣ってくれて、ありがとうございます。でも、門司さん。それは立ち向かっている人だからこそ、言える言葉ですよ。逃げ続けている弱虫が、必要なわけないじゃないですか」
「そんなん言うのやめぇや。世の中にはな、必ず自分のことを必要や言うてくれる人が……」
「いません、そんな人いるわけがありません」
食い気味に言葉を遮った梨絵に、佳織は返す言葉をなくした。これ以上言っても梨絵は聞く耳を持たないだろう。会話はずっと平行線を辿っていくだけだ。
二人は何も言わず、車窓を眺めた。
雑多な山の斜面に、たまに住宅地が現れる。車内に二人を気にする者はいない。
物言わぬ列車は交差しないストーリーたちを乗せて、淡々と走っていく。空には少しずつ、翳りが見え始めていた。
(続く)