【第6話】その切符、18
「思ってたよりあっさりしていますね」とは、神戸駅を目にした梨絵の感想だ。
南口から見た神戸駅は横長で、煉瓦の壁から列車が走り出していくのが見える。神戸市の中心駅としてはやや心もとなく、それが梨絵の目には意外に映ったのだろう。そもそも神戸市のターミナル駅は、二つ前の三ノ宮駅である。新神戸駅からも、三ノ宮駅の方が近い。
だが、シンプルながら暖かみのある駅舎が、佳織は嫌いではなかった。
神戸駅は、南口と北口が直線でつながっている。電光掲示板の前では、学生たちが立ち話をしていた。退勤時間前とあって、混雑も緩やかだ。
佳織は乗車券の購入口に入っていく。梨絵も後に続く。奥には自動販売機も見えているというのになぜ。
梨絵が不思議がっていると、佳織が話しかけてきた。
「なぁ、五千円持っとる?」
急に聞かれて、梨絵は戸惑っている様子だった。まさか自分の分の乗車料金も、払ってくれるとでも思っていたのだろうか。慌てて財布を開く梨絵を見て、佳織は訝しむ。
五千円札を差し出す梨絵。佳織は簡単な感謝の言葉を述べて、自らの一万円札と合わせた。合計金額は二人で乗る新幹線よりも高い。
「18きっぷ一枚ください」
「はい、青春18きっぷ一枚ですね。少々お待ちください」
駅員が事務室へと消えていく。しばしの沈黙。佳織は待ち時間を、新幹線の発車表を見ることで潰した。
「こちら青春18きっぷ一枚でお間違いないですか」
佳織は小さく頷く。梨絵が後ろから覗くと、プラスティックのトレーの上に、薄緑色の切符が一枚置かれていた。吹けば飛ぶような軽さに見える。
「一二〇五〇円になります」
この切符一枚でそんなに。梨絵はトレーの上に、理解の及ばない深遠を見た気がした。お釣りを自分の財布にしまい、礼を言ってから購入口を後にする佳織。そのまま改札口に、向かおうとする。
「門司さん、切符買わなくてよかったんですか」
梨絵が呼び止めると、佳織はやや倦んだ様子で、振り返った。
「切符ならもう買うたやん。これが自分の切符やって」
佳織が手に持つ切符を、ひらひら揺らす。
「自分、18きっぷ知らんの?」
「18きっぷ……?」
「18きっぷぐらい、鉄道に詳しない人でも知っとる思たんやけどな。これ一枚で五日間、快速も含めたJR全線が乗り放題いう切符や。使い方次第では、新幹線に乗るよりずっとお得な切符なんよ。時間はかかるけどな」
「そんな切符があるんですか」
「せや。で、この切符は、別に一人で五日間乗ってもええし、五人で一日乗ってもええの。つまりは、これを改札口で見せんだけで、二人で列車に乗れるいうわけ」
「そうなんですね。私のためにわざわざありがとうございます」
「別に自分のためちゃうて。一人でも買うつもりやったし」
そう言うと佳織は踵を返して、改札口へと向かった。「18きっぷで」と、切符を駅員に見せる。「青春18きっぷですね」と駅員は受け取り、乗車日が記されたスタンプを二つ押す。梨絵には心なしか、佳織がわずかに俯いたように見えた。
「この切符、本当は青春18きっぷって言うんですね。門司さん、18きっぷとしか言ってなかったですけど」
「だって、『青春』なんて口にすんの恥ずいやん。もうそないな年ちゃうし」
佳織の目線は、梨絵の方を向いてはいなかった。その先にあるのは不動産業者の看板。だが、佳織はもっと奥を見つめているように、梨絵には思えた。口元がかすかに動いている。梨絵は同じく、まっすぐ前を見つめた。
ホームに、列車の到着を知らせるメロディが鳴り渡る。オレンジ色のラインが、目の前に止まる。梨絵にとって見覚えのある色だった。
神戸線の車内は二人が楽に座れるくらいには空いていた。降車客と乗車客の均衡が保たれ、一定の閑散を維持している。身軽な地元客や通勤客が大半だったが、中には大きいリュックサックを床に置いている人もいて、佳織は同じ鉄道ファンだろうかと親近感を覚えた。
ただ、妙に瞼が重い。歩き疲れだろうか。
だが、ここで眠るわけにはいかない。
この先、神戸線は大阪湾沿いを走る。車窓から夕陽に照らされる海と、遥かに広がる水平線を見なければ、神戸線に乗った意味が薄くなってしまう。
佳織は何とか起きているように努めた。梨絵にJRの神戸線は愛称で、本当は「東海道・山陽本線」と言うのだとか、今乗っているJR西日本二二三系電車には、九号車にプラス五〇〇円で乗ることができる優良座席があるのだとか、話をして眠気をごまかそうとした。
しかし、梨絵の反応はいまいち薄く、話が盛り上がることはない。話のタネも減ると、佳織の意識はよりまどろむようになった。列車の不規則な揺れが快適だ。
佳織の視界は狭まっていく……。
自分が寝てしまったことに佳織が気づいたのは、列車が姫路駅に到着する手前のことだった。
起きると、鉄道ファンが、こちらを一瞥した。隣の梨絵は、スマートフォンでゲームに興じている。寝ぼけまなこで見ると、車窓の向こうにビル群。
佳織が後悔し始めたころにはもう遅く、列車は姫路駅に到着した。二人は列車を降りて、向かいの山陽本線に乗り換える。
空色の駅名標を撮影している時間は、なかった。
(続く)