【第5話】葉桜と踏切
線路沿いの道を歩く二人を、阪急六〇〇〇系が追い抜いていく。
音に釣られて、佳織は列車内を垣間見た。誰とも目が合うことはなかった。通勤路線で慣れきってしまっているのだろう。地域密着を感じられるのはいいが、誰か一人は車窓の外を見てほしい。そう、一人ごちる。
二人は、踏切に出た。向こう側には霊園への通路が、口を開けたように待っている。車の往来はほとんどない。
梨絵は踏切を渡ったかと思うと、立ち止まった。佳織がのぞくと、梨絵は迷った様子を見せていた。明らかに言いよどんでいる。
だが、一台、車が過ぎ去ってから、ゆっくりと小声で口を開いた。
「あの……。門司さんって、自分がこの地球上でどれだけちっぽけな存在か、自覚したことあります……?」
「なんや、急に。そないあるに決まっとるやろ」
「え、あるんですか?」
「あったら悪いん?日本には五〇〇以上もの路線があって、九〇〇〇を超える駅がある。その総数に比べたら、あたしが乗ったことある路線なんてほんの一部。せやけど、この世の中には、その九〇〇〇以上の駅の全てで降りたいう人もおって。途方もないわ。あたしかて、まだまだちっぽけな存在や。もっと多くの路線に乗らないかんなぁとは、いつも思うとる。廃線になってまう路線もあるから、急がなね」
佳織の反応に、梨絵は面食らったような顔を見せていた。まるで予定が違うとでも言いたさげな。話さなかったほうがよかったのでは、と佳織が考えていると、踏切が鳴る音がした。列車が通り過ぎるまで、二人はその場を動かなかったし、一言も声を交わさなかった。
列車も見ずに、立ち止まっている自分たちは、車内の人から見れば、さぞ不思議なことだろう。それでも、別に見られてはいない。
マルーン色が遠ざかっていく。
梨絵は、「そうですか」とだけ言い、また歩き出した。その後をついていきながら、佳織は今のは何だったのだろうかと、ふと考えた。もしかしたら、例のアニメのワンシーンだったりするのだろうか。
わざわざ梨絵に聞くのは、何となく恥ずかしい気がした。
二人は一定の距離を保ち、時折、他愛のない話をしながら歩き続けた。梨絵が、夙川沿いの遊歩道に入っていく。
佳織が見上げると、木々が黄緑色の葉をはためかせていた。日陰になっていて、時々吹く風が爽やかだ。夙川がさらさらと、音を立てて流れている。
そういえば、JRにさくら夙川駅というのがあったな。とすると、この木々は桜だったりするのだろうか。春には川沿いに林立する桜並木になるのだろうか。
佳織は、木々の葉が薄桃色の花びらに変わっている情景を想像した。麗らかで、花見でもしたら、気分よく酔うことができそうだった。
梨絵はしばらく歩くと、ベンチに座った。佳織も隣に座る。やはり梨絵の挙動は落ち着いておらず、なかなか話し出せずにいた。
「どしたん?何か言いたいことあるんちゃうの?」
今度は佳織から、切り出してみる。見抜かれたように、梨絵は目を丸くしていた。やがて、口を開く。
「あの、実は私はこの時代の人間じゃないんです」
少し声が高かった。
「それもアニメの台詞なん?」
佳織がそう投げかけると、梨絵は分かりやすくのけぞった。どうやら図星らしい。
「どうして分かったんですか?もしかして見たことあるんですか」
「いや、ないけど。でも、そないけったいなこと、現実じゃあまり言わへんやん」
「なんかすいません」
「ええよ、別に。そのキャラクターは過去から来たん?それとも、未来から?」
「一応、未来人の設定です」
「未来人なぁ。夢があってええね。あたしも未来人に会うてみたいわ。なぁ、もし未来人に会うたら、どうする?」
「未来の自分が、もう少し良い人間になっているか聞いて、もしなっていなかったら、なれるようにお願いしたいと思います」
「そんな、神様や仏様ちゃうねんから」
少し呆れたように佳織が言う。
木の葉が一枚、二人の元に落ちた。
二人が夙川駅に着いたのは、四時を過ぎてのことだった。バスロータリーの屋根の影が、伸び始めている。道路を挟んだ子供の銅像の向こうには、デッキに連結した背の高いマンションが見える。改札口からは、制服を着た学生たちが少しずつ押し出されていた。
「ほな、自分ともこれまでやな」
竹を割ったような佳織の言葉。梨絵はおじけづいた様子で、肩を落としている。
「普段、列車に乗うとるだけじゃ、なかなか行けんとこまで行けておもろかったわ。景色もよかったし、乗うたことない甲陽線にも乗れたしな。ありがとな」
佳織が踵を返そうとしたとき、下を向いて口を結んでいた梨絵が、話し出した。
「「門司さんって、これからどこへ行くんですか……?」
「目的地は広島やな。でも、その前に岡山の倉敷で一泊するつもりやけど。それがどうかしたん?」
「あの……、私も広島に行くんです。なので、ついていっていいですか。一人だとやっぱり寂しくて。もちろん迷惑はおかけしません。お気に障るようでしたら、無視してもらってけっこうです」
懇願する梨絵の声は、どこまでも頼りなかった。「お願いします」と深々と頭を下げる。周囲の視線がちらほらと二人に向いていた。これではまるで自分が頭を下げさせているみたいで、バツが悪い。
佳織が「ええから頭上げぇや」と言っても、梨絵は「連れて行ってくれるまで上げません」と返すばかり。
案外、頑固な性格も持ち合わせているらしい。
「しゃあないなぁ。ついてきてもええよ。ただし、条件が一つ。あたしが行きたい言うたとこには、嫌でも文句を言わず、ついて来んこと。それができんなら、一緒に行ったる」
「本当ですか……?ありがとうございます」
佳織が許可を出すと、梨絵はようやく頭を上げた。目から少しだけ零れ落ちるものがある。それほどまでに不安だったのだろうか。
自分は正しい選択をしたのだろうかと、佳織は慮る。
その答えは、この旅が終わるころには、明らかになっているだろう。
「ほな、そろそろ行かなね。もう次の列車来てまうから」
そう告げて、佳織は改札口へと歩き出した。
ローヒールのパンプスの控えめな足音を聞きながら、心は年甲斐もなく、ほんの少しだけ浮き上がっていた。
(続く)