【第3話】マルーンカラー
線路の先を見つめる。視線が同じなので会話もない。
二人は西宮北口駅のホームにいた。甲陽園駅へは阪急神戸線に乗り、途中の夙川駅で甲陽線に乗り換える必要がある。といっても乗り換えも含めて、わずか一〇分ほどの旅路だ。梨絵のここまでの道のりを考えれば、ほとんど一瞬のようなものである。
しかし、梨絵は浮き足立っていた。今から『ハルヒ』の舞台に行くと思うと、手がかすかに震えるようだった。
二分もしないうちに、列車は到着した。
濃い茶色の列車は、梨絵にはポリフェノールが含有されたチョコレートのようにも、収穫直後の小豆のようにも見えた。改めて見ると、屋根に日光が遮られたこのホームでも、その列車は光沢を放っていて、高級感をさりげなく振りまいている。
それでも、降りてくる人々は誰も着飾っておらず、他の電車のように誰でも乗れるようだ。アニメでハルヒたちが乗っていたみたいに。
そう考える梨絵の横で、佳織はスマートフォンで、一枚写真を撮っていた。
乗車すると、中ほどに運よく二人分だけ席が空いていたので、二人は並んで座ることができた。梨絵には、木目調の内装は新鮮に映る。いつも乗る東京の列車とは大違いだ。ほんのりと暖かくて、通勤列車がこうだったら、満員電車の負担も軽減されるというのに。
それでも、しばらく乗る機会がなくなったことに気づき、心が少しだけ痛む。
発車ベルが鳴り、列車は動き出す。
「どうや、この木目調の車内。ええやろ」
佳織は梨絵に、そう話しかけていた。
「なんか心が落ち着く感じがします」
「ほんまは全部木でできとったら、最高なんやけどな。でも、そうすると燃えかねんから、金属板に木目ぇ印刷しとんの。この車両はちゃうけど、最新の車両はマホガニーの模様が印刷されとって、とてもしゃれとるらしいしなぁ」
「それは乗ってみたいですね」
「せやな。あと、このシートもけっこうこだわっとってな」
佳織はシートを振り向いて指差す。濃い黄緑色は、茶葉の新芽のように梨絵には見えた。
「このシートの色はゴールデンオリーブいうて、素材もアンゴラ山羊の毛を使うとるんやって。ほら、触ってみると肌触りがちゃうやろ」
言われるがままに、梨絵はシートを触ってみた。小さな産毛が、芝生に寝転がっているように心地よかった。
車内アナウンスが流れる。もうまもなく夙川駅に着くらしい。まだ三分も経っていないというのに。
夙川駅に到着すると、どこか和やかな空気が二人を迎えた。電車が通り過ぎた後の、東側のホームから夙川がさらさらと流れているのが見え、新緑の木の下を人々が歩いている。
梨絵にとっては見覚えのある光景だった。そういえば、ここも『ハルヒ』に出てきたな。後で寄る時間は取れるだろうか。そう思っていると、佳織が声をかけてくる。
「なぁ、駅名標と写真を撮りたいんやけど、撮ってくれへんかな」
梨絵にとっては午前中に写真を撮ってもらった恩があるので、断れるはずがない。今度は佳織のスマートフォンを受け取り、カメラを向ける。紺色の駅名標の下で、佳織は大きく手を広げており、来訪を満喫していた。
撮影した後、佳織が「自分も撮るか?」と聞いてきたが、梨絵は「大丈夫です」と断った。乗り換え時間は、二分しかない。
夙川駅は、阪急神戸線と甲陽線が、垂直に交差する珍しい形状の駅だ。梅田行きのホームからはすぐ乗り換えることができるが、神戸三宮行きのホームからは、地下通路を通らなければならない。
二人とも軽装だったので大した負担にはならなかったが、焦らずゆっくりと歩く佳織の背中を見ていると、梨絵は少し不安になった。警告音が、頭上から降ってくる。梨絵は走ろうとしたが、佳織は平静を保ち、地元の病院の広告を見ながら、悠然と歩いていた。
梨絵が甲陽線のホームに出ると、深い茶色の阪急電鉄はもう出発してしまっていて、ぐんぐんと遠ざかっていた。肩を落とし、膝に手をつく。
後から佳織がホームに出てくる。佳織から見た梨絵は、たいそう落ち込んでいる様子だった。
心配しなくても、一〇分待てば次の電車が来る。たったの一〇分。ローカル線にしては早いほうだ。これくらいのアクシデント、どうということはない。
「電車、行っちゃいましたね」
「でも、すぐ次の列車が来るし、それまで待っとたらええやん」
「次ってどれくらい後ですか」
「一〇分後」
佳織の言葉を聞いて、梨絵は再び線路の先を眺めた。残響はもう消えてしまっている。
「え、でも、もし事故とかあったりしたら、一〇分じゃ来ないですよね。一時間二時間待たされるかも。やっぱりさっきの電車に乗ったほうがよかったんじゃ……」
「今は、そんなん考えてもしゃあないやん。そない混んでる路線ちゃうんやし、ちゃんと時間通りに来るて」
「それでも、運転手さんの体調が悪くなったり……」
「交代勤務しとるから大丈夫」
「お年寄りの方が降りるのに手間取ったり……」
「もしそないなっても、たかだか二分程度の遅れやろ。何を焦る必要があるん。ゆっくり待とうや」
そう佳織が言っても、梨絵は落ち着かずにホームを右往左往していた。口に手を当てて考え込んだりもしている。佳織が飲料水を買って渡しても、梨絵は受け取ることはしなかった。
「自分、何してん。そない心配しとってもしゃあないやん。しゃきっとせんと」
「でも、実際に来るかどうかなんて、分からないですよね」
「ちゃんと来るようにダイヤ組まれとんのやから、大丈夫やって。もうこの話止めにしよ。別の話しよ」
佳織が半ば呆れたように言う。ホームに人は現れない。
「阪急電鉄の列車ってみんな小豆色やん。あれはマルーンカラーいうて、百年以上同じ色なんよ。正確には栗のマロンの誤訳なんやけど、シックで風情があってええよね。昔は配色を変更するいう案も出たみたいやけど、結果的にマルーンカラーに落ち着いたんやって。伝統を守り続けるいうんは大切やね」
佳織の言葉にも梨絵は簡単な相槌を打つばかりで、手をソワソワ動かしている。まるで迷子の女の子みたいに。俯く梨絵の姿も、人を惹きつけることに佳織は気づいた。彼女は、幸運な星のもとに生まれてきているのだ。
やがて、マルーンカラーの列車がやってきて、ベンチの前に止まった。梨絵は到着のメロディが鳴る前から席を立っていて、降車客がいなくなると、すぐ列車に入ろうとしていた。佳織は忙しない後ろ姿を、ぼんやりと見ていた。
この車両は四〇年物の阪急六〇〇〇系。阪急で初めて製作されたアルミ車体であり、もともとは六両編成だったが、甲陽線のワンマン運転用に改造され、三両編成となっている。
だが、そんなことを言っても、今の梨絵は気にも留めないだろう。佳織はゆっくりと列車に乗り込み、梨絵の隣に座った。車内にはたくさん席が空いているのに、なぜか立っているスーツ姿の男性しかいなかった。
列車が動き出すと、正面の車窓からは家々が過ぎ去っていくのが見えた。立派な一軒家が並び、アパートはあまり見当たらない。六畳一間に住む自分よりも、豊かな暮らしをしているのだろうと、佳織は察した。
その隣で、梨絵は後ろの車窓をじっと見ていた。木々が等間隔で植えられた河川敷の向こうに、これまた垢抜けた住宅が見える。木々の陰で涼んでいる人が多く、目を合わせることもなく通り過ぎていく。
五分もしないうちに、終点の甲陽園駅に到着する。
二人はその間、一言も言葉を交わさなかった。
(続く)