【第2話】早すぎる再会
その瞬間、鐘の音とともに扉が開けられた。
目をやると、そこには先程、佳織に写真を撮ってほしいと頼んだ女性が立っていた。小さいフリルのついたブラウスが、冷房の風に揺れている。
女性は、辺りをぐるりと見まわしたかと思うと、佳織の方まで歩いてきて、佳織の隣の席に座った。ショートボブに切り揃えられた黒髪が、喫茶店の中で際立って見える。こういった店に来るのは初めてなのだろう。席に着いても落ち着くことは無く、どこに視線を定めたらいいか、決めかねていた。店員がやってきても返答はしどろもどろだ。
だが、佳織の方をちらりと見ると、小さい声で「このアイスエスプレッソ?をお願いします」と注文する。
さては、私を見て決めたな。
佳織はアイスエスプレッソをもう一口飲んだ。ミックスサンドイッチは、まだ到着していない。
店内に十二時のチャイムが鳴り響く。低音は、佳織と女性の隙間を揺らして、消えていった。束の間訪れる沈黙。その歯がゆいような、蝕まれるような沈黙に、佳織は耐えることができず、口を開く。
「自分、さっきあたしに写真を撮ってくれいうて、頼んできたよなぁ」
彼女は、少しびくっとしたような挙動を見せた。まさかこのままやり過ごせると思っていたのだろうか。
だが佳織は、二度も自分の半径一メートル内に入ってきた人間を、おいそれと無視できる性分ではなかった。
「はい、先ほどはありがとうございました……」
彼女の語尾は今にも消え入りそうだった。何も責めているわけではないのに。
「なんで隣に座るん。いや、純粋な疑問なんやけど、こんだけ席が空いとったら、座るとこなんて選び放題やん。せやのに、一回写真を撮ってもろて、ちょい話しただけの、見ず知らずの女の隣に座るなんて。なかなかけったいやと思うわ」
「それはあの……。私、こういうところ初めてなので……。知っている人の隣だったら落ち着くかなって……。気分を悪くされたらごめんなさい。今、どきますね」
「別にどかんでええよ。ここにおってええて」
淡いピンク色のハンドバッグを持ちながら、逃げようとする女性を、佳織はとっさになだめた。
実際、隣にいられても悪い気はしない。アロマのような柔らかなオーラが、女性からは醸し出されているように、佳織は感じていた。
やがて、店員がやってきて、アイスエスプレッソとサンドイッチを置いた。女性のアイスエスプレッソの方が先に置かれたことが、佳織には少し気になったが、喫茶店ののどかな時間の流れの中では、些細なことだろう。
女性がアイスエスプレッソを一口。すると、口を萎めて、目を閉じて、苦さを顔全体で表現した。
「さっき自分、こないなとこは初めて言うたやん。もしかしてこないな旅も初めてなん?」
佳織は、サンドイッチを食べながら聞いた。レタスの食感が気持ちよい。
「たまに友達と旅行に行ったりするんですけど、一人で来るのは初めてです」
女性はそう言い終わってから、アイスエスプレッソをまた飲む。再び顔に皺が浮かぶ。
「今日は友達と一緒やないん?」
「なにぶん急に決めたので……。一応誘ったんですけど、来られないという返事でした」
ミックスサンドイッチは、想像以上にボリュームがあった。食べ進めていた佳織の手も、止まり始める。
「自分、ニシキタに来んのは初めて?あたしは、なんべんか来とるんやけど」
「はい、初めてです」
「なんでニシキタなん?」
「それは、あれです」
そう女性が手で差したのは、入り口から少し入ったスペース。アニメと思しきキャラクターのポスターに、フィギュアやグッズが整然と並べられていた。レジの前には、スタンプ置き場も見える。
この喫茶店には、いささか不釣り合いなように、佳織には思えた。
「なにあれ?アニメ?」
「そうです。『涼宮ハルヒの憂鬱』って知ってますか?」
三〇分にも満たない相席だが、女性の声がこれまでにないほど弾んだ。しかし、それも佳織が「いや、知らんなぁ」というとたちまち萎んでいき、元に戻る。
「あの、『涼宮ハルヒの憂鬱』、通称『ハルヒ』っていうアニメがありまして……。この喫茶店は『ハルヒ』の中で登場したお店なんですよ……」
佳織にとっては「そうなんや」としか言いようがない。その平坦なリアクションに、女性のテンションは、より下降していく。
「それで、この西宮市には『ハルヒ』の舞台になった場所がたくさんありまして……。さっきの時計台もそうだったんですけど……。なんか急に訪れたくなってしまって……。それで来たみたいな感じです……」
「まあええんちゃう。そらそれで。旅の目的は人それぞれやしな」
「あの、これからどこか行くとかありますか」
佳織がミックスサンドイッチをようやく食べ終わり、女性もアイスエスプレッソを半分ほど飲み終えていた。いい区切りとでも思ったのだろうか。
嘘をつく理由は、佳織には思い当たらなかった。
「あたしはこれから阪急に乗って、ブラブラするつもりやけど」
「もしかして甲陽線とかって乗ったりします……?」
「よう知っとんなぁ、そないマイナー路線」
「『ハルヒ』の舞台になった高校が、甲陽園駅の近くにありまして。あのもしよかったら、一緒に行かせていただいてもいいですか……?」
女性の突然の提案に、佳織は少し面食らう。ストローでわずかに残っていたアイスエスプレッソをかきまぜ、飲み干す。少しだけ頭が冷めた。
「ええよ。あたしも甲陽線には乗ったことないし。こない機会やないと乗れんもんなぁ。一緒に行ったる」
「あ、ありがとうございます!」
女性は手を握って喜んでいる。予定にない二人旅。だが、伊藤と会うまでならそれもいいだろう。
そういえば、まだ聞いていないことがある。
「なぁ、自分、名前なんていうん?」
「あ、私は白山梨絵といいます。梨の絵と書いて梨絵です」
「あたしは門司佳織。佳く織ると書いて佳織。よろしく」
「こちらこそよろしくお願いします」
そう言って梨絵は、慇懃に頭を下げた。共に旅をするにあたっての第一条件。性格が悪くないことは、満たしている。梨絵は顔を上げて、佳織に微笑んだ。向日葵のような笑みに、佳織も微笑み返す。
客も増え始め、店員は忙しなく動き回っている。コーヒーのかぐわしい匂いが、あちらこちらから立ち上ってくる。
冷房の風が、二人を漂うように撫でていた。
(続く)