【第32話】シー・ユー・アゲイン
JR広島駅は夜の七時半を過ぎても、まだ混雑していた。キャリーバッグを引いた人々が、駅舎へと吸い込まれていく。駅前の広場は、駅舎から漏れる明かりと街灯に照らされて、十分すぎるほど明るい。
二人は噴水の前にいた。電灯が設置されていて、幻想的な光を放っている。広島駅南口の噴水は、半球が二つ並んだ特異な噴水だ。シャワーのように上から下へと水が流れている。
その噴水の前に、佳織と梨絵は立っていた。二人がいた路面電車乗り場は、今もまだ多くの人で賑わっている。行きかう人々の中、立ち止まる二人。
佳織は口惜しそうに尋ねた。
「ほんまにもう帰るん?」
「はい、東京行きの新幹線の終電が八時なので、もうそろそろ行かないと。私はホテルも取ってないですし、今日帰らないといけないんですよ」
申し訳なさそうに梨絵が答える。「ホテルを取っとらんのは、あたしも一緒やって」と佳織は食い下がったが、それでも梨絵の態度は変わらなかった。「すいません」と何度も謝る。
きっと、彼女には彼女なりの事情があるのだろう。無理に引き留めることを佳織はしなかった。
「これでほんまにお別れやな」
「そうですね。でも、門司さんと一緒に旅をさせてもらった三日間は、私の今までの人生の中でも幸せな時間でした。こんなふうに他の誰かと旅をしたこと、あまりなかったですから。目に映るもの全てが新鮮で、忘れられない思い出になりました。本当にありがとうございます」
「礼をいうのはあたしもやって。すまんな。あたしのわがままにつき合わせてもうて。せやけど、一人やったら、行かんようなとこにも行けて、ええ経験ができたわ。自分と会えへんかったら、こない充実した旅にならんかった。こっちこそ、ありがとな」
噴水から発せられる明かりが、二人を慎ましく照らす。顔を見合わせて、また笑い合う。
一瞬が永遠になるような、そんな気がした。
「せや、旅のしるしに、一つ渡したいものがあるんやけど」
「え、なんですか?」という梨絵の返事を笑顔で受け流すと、佳織はハンドバッグに手を入れた。茶色の長財布から、一枚の切符を取り出す。
この旅の最中、二人で一緒に使った青春18きっぷだった。スタンプはまだ四個しか押されていない。
佳織は、そのまま何にも入れずに、青春18きっぷを梨絵に差し出した。
「いいんですか、受け取って」
「ええて。あたしからの気持ち。まだ一日分だけ使えんから。有効期限は九月末やけどな」
佳織が「ほら」と念を押す。梨絵は遠慮なく受け取り、自らの財布にしまった。佳織からの予想外のプレゼントは、軽くて薄かったけれど、思い出が刻まれたとても素敵なものだった。梨絵も佳織に何かを渡したくなる。
ただ、何を渡せばいいのか見当もつかない。少し考えた後、梨絵は自分にも渡せるものが一つだけあったことを思いつく。
ポケットからスマートフォンを取り出して、こう持ち掛けた。
「門司さん、ラインやってますよね?私と交換しません?また、いつでも話せるように。旅の約束ができるように」
梨絵はこれまででも一番の笑みを、佳織に向けた。断る理由なんてどこを探してもない。むしろ、こちらから持ち掛けたかったくらいだ。
佳織もスマートフォンを取り出して、二人はお互いのコードを読み込み、友だちに登録しあった。ホーム画面の一番上に、相手の名前が表示されている。佳織の心は弾み、思わず口走る。
「ライン交換したんやから、もうあたしら他人同士ちゃうよな。これからは下の名前で呼んでええ?」
「え、え、え、それはちょっと……」
梨絵は明らかに戸惑った様子を見せている。しまった。いきなり距離を縮めすぎたか。どうやってフォローしよう。佳織が考えていると、梨絵は一つ大きく息を吐いて、佳織の方をもう一度、向き直る。
「すまん、ちょいいきなりすぎたなぁ……」
「いや、大丈夫です。はい、これからは下の名前で。ね?佳織?」
「せやな。梨絵」
佳織が笑顔でそう返すと、梨絵は顔をぱっと見で分かるくらい真っ赤にした。明らかに慌てふためいている。
「すいません、やっぱりちょっと恥ずかしいです。佳織さん、でいいですか?」と上目遣いで聞いてくるので、佳織は、もちろんそれを受け入れた。
「梨絵がええんなら、あたしはそれでええよ」
「ありがとうございます。じゃあ、これからは佳織さんと呼びますね」
「ありがとな。ところで、時間の方は大丈夫なん?」
佳織の腕時計は、一九時五〇分を指していた。もう新幹線の発車時刻まで一〇分もない。スマートフォンを見て、梨絵もそのことに気づいたらしい。落ち着こうとしているが、口調は確実に焦っている。
「ごめんなさい、佳織さん。私、本当にもうそろそろ行かないと」
「もしよければ、今度大阪にも来てな。阪堺電車やら魅力的な鉄道ぎょうさんあるから。紹介したるわ」
「ぜひお伺いしたいと思います」
「ほな、またな」
「はい、またいつか!」
最後の挨拶を交わすと、梨絵は駅舎に向かって走っていった。佳織は駅舎に背を向けて、今晩はどこに泊まろうかと考える。
ふと、振り向くと、梨絵の姿はもう見えなくなっていた。人の往来が続く駅広場の中で、佳織は小さく微笑んだ。
駅舎の上空で星が瞬いていた。
とりあえず駅前通りを歩いていけば、ビジネスホテルの一軒や二軒見つかるだろう。佳織はパスコードを入力して、スマートフォンのロックを解除した。ホテル予約サイトに向かうつもりだったが、知らず知らずのうちに黄緑色のアイコンをタップしていた。
表示される友だち一覧。一番上には、白山梨絵の文字があった。
その下にあったのは、スタジアムの写真のアイコン。登録名は「伊藤光生」。佳織はその名前をタップする。会話は昨日の分で終わってしまっている。
いままで数え切れないほどのメッセージを交わしてきたライン。
すぐに既読がつけば嬉しかったし、なかなか既読がつかなければ、本気で心配したライン。
中身のない話で何分でも会話することができたライン。
それは佳織と伊藤の思い出、三年間の歴史そのものだった。
佳織は、ホーム画面に戻り、伊藤の名前を長押しした。ブロックリストに追加するかどうか、スマートフォンが聞いてくる。ここで伊藤の痕跡を、きれいに消し去ることは簡単だ。新しい自分になって、リスタートを切ることだって指先一つで決まる。
でも、もしそうだったとしても。
佳織は、キャンセルの表示をタップしていた。伊藤の名前は、佳織のラインにそのまま残る。もったいないとは思わなかった。
またすぐに前を向けるほど、私は強くない。名前を見るたびに気にして心を痛めるだろう。
しかし、それで挫けるほど、私は弱くもない。
今ここにいるのは、門司佳織という一人の、ただ一人の人間だけだ。
強いも弱いも、周りからそう見えているだけ。
佳織は、顔を上げた。信号が青に変わっている。
歩き始めると、熱帯夜の気だるい風が、ふいに優しく感じられた。
(続く)




