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【第31話】カウンターゼロ



 それから三本の列車が駅に入線し、また出発していった。黄昏時を過ぎた空は、黒さを増していく。

 青いベンチに座る佳織の目に、涙はもうあまり見られなかった。深くため息をついて、視線を上げる。自転車が二人の前を、走り去っていった。

 梨絵は佳織の手から、手の平を離す。何も触れていない手の平は、どこかうら寂しい。


「そろそろ広島駅に戻ろかな」


 清々しさを含んだ声で佳織が言った。泣きたいだけ泣いた。もう私たちがここにいる理由は、ほとんどない。佳織の提案に梨絵も頷く。

 互いの気が済んだことは、何も言わずとも、曇り空に一筋の光が差し込んだような表情を見れば分かる。


「次の列車、あと何分くらいで来るん?」


「今、スマホで調べたんですけど、あと八分後に来ますね」


 八分。いつもの鉄道旅ならそのくらいどうということはないが、今日に限っては長く感じられる。

 佳織が梨絵を見ると、同じように時間の潰し方に迷っているのか、辺りをぐるりと見回していた。といってもここには駅と、中学校と、ガソリンスタンドぐらいしかない。

 佳織はベンチから一度立って、大きく伸びをした。後ろの木々のおかげか、空気が少し涼しい。


「そうだ、門司さん。写真を撮りましょうよ。ここに来てからまだ、駅名標撮ってませんでしたよね」


 梨絵がスマートフォンを手に取りながら言った。そう言われてみれば、確かにここに来てから感情が忙しくて、駅名標どころではなかった。佳織が振り返ってみると、黄色いバックに黒文字の駅名標が、掲示板の一部として収まっていた。

 警戒色は、夜でもよく目立ちそうだ。


「まずは、私が門司さんを撮りますから。スマホ貸してください」


 一日ぶりにスマートフォンを梨絵に手渡す佳織。透明なカバーがところどころ擦れている。梨絵は佳織のスマートフォンを持って一歩ずつ後ずさりしていく。

 ただ、線路寸前まで離れた梨絵はスマートフォンを見て、首を傾げた。「なんか違うな」という呟きが佳織にもはっきりと聞こえた。


「どないしたん?」


「ちょっと待ってください。たぶん何かが違うんです。何だろな……」


 しばし線路際で考え込む梨絵。列車が来る気配はまだない。

 閃いたとばかりに、顔を上げて言う。


「そうだ、インスタントカメラですよ。佳織さんのインスタントカメラって、まだ撮影できましたよね。せっかくなので、使い切るためにもインスタントカメラで撮りましょう」


 梨絵が戻ってくる間に、佳織はハンドバッグの中を探した。少しかき分けると、緑色が見える。竹原で使ったまましまわれていたインスタントカメラだ。取り出してみると、やはり呆気ないほど軽い。

 カウンターは残り三枚を指している。


 佳織は歩み寄ってきた梨絵に、インスタントカメラを手渡す。自分の手から離れた瞬間、とても重いものが空に浮かんでいくような気が、佳織にはした。梨絵が離れていくわずかの間、佳織は梨絵から目を離すことがなかった。


 再び、梨絵はホームの間際まで下がり、インスタントカメラを構える。向けられたレンズが、心まで見透かしているようだ。

 気づくと、出し尽くしたはずの涙が、佳織の頬を流れていた。手で拭う。

 こんなみっともないところを、写真に残すわけにはいかない。


「門司さん、涙は拭わなくても大丈夫ですよ。涙を流している門司さんだって、強くも弱くもないそのままの門司さんなんですから。最後は素直な写真を撮りましょう」


 梨絵が諭す。佳織は手を止めた。流れる涙も、上がってくれない口角も、湿気で膨らむ髪も、全部自分だ。

 紛れもない門司佳織だ。

 佳織が「ええよ」と言うと、梨絵は少し間を置いてからシャッターを切った。小さなシャッター音は車の走行音にも消されることなく、駅に響いた。


 二人は役割を交代する。佳織が撮った梨絵は、真っすぐ背筋を伸ばしていて、手の位置も極めて自然だった。佳織に配慮したのか笑顔は少し控えめ。もう少し笑ってくれてもいいのに。そう佳織は感じた。

 二人の写真を撮ってカウンターは残り一枚となった。

 どうせ撮るなら、最後は二人一緒に写った方が良い。


 ふと二人が横を見ると、三〇分前に降りた男性は、まだ、ベンチに座って、耳にイヤフォンをつけていた。何やら手を動かしているところを見ると、ゲームでもしているのだろう。

 二人が近づいても、男性はゲームに夢中で気づく様子を見せない。

 梨絵が精一杯大きな声で「すみません」と言うと、男性はようやく気付いたようで、少し嫌な顔をしながらもイヤフォンを外した。


 ただ、その第一印象とは裏腹に、男性は意外なほど快く二人の依頼を引き受けてくれた。「どうせ写んなら、全身写ったほうがええよな」と、頼んでもいないのに、反対側のホームまで走っていってくれた。

 二人は駅名標を挟んで立った。顔を見合わせるとなんだかおかしくて、どちらからともなく笑った。「じゃあ、撮るけぇな」と男性が大きな声をかけてくる。

 二人は特別なポーズをすることもなく、実に自然にフレームに収まった。

 シャッターが切られる。どんな写真になっているかは、現像してみないと分からない。男性からインスタントカメラを返されたとき、カウンターは0を指し示していた。

 二人は、また一つ小さく微笑む。

 青緑色の列車が、入線してくる。



(続く)

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