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【第30話】この世の果てまで



 三〇分ほど走って、列車は終点に到着した。乗車料金の一九〇円を払い降車すると、木の葉が揺れる気配を梨絵は感じた。実際この駅は中学校に面しており、校内が見えないように植樹されて木の壁ができているが、そんなことは、今の二人には関係ない。

 佳織はよろよろと青いベンチまで歩いて腰を下ろし、梨絵もその隣に座った。列車が過ぎ去り、降車客もいなくなった駅は、自動車の往来の音だけが聞こえていた。静寂でないのが、かえって二人にはありがたい。


 どれくらい経ったのかは分からない。時間にしてみればほんの数分だろうか。

 先に口を開いたのは佳織だった。


「いつまでこうしとるつもりなん?」


 呟くつもりの言葉は想像以上に大きく、棘があった。少しストレスが蓄積していたのかもしれない。

 梨絵が穏やかな声で返す。


「門司さんが、『もういいよ』って言うまでです」


 佳織は梨絵の顔を見た。どこにも不満の色は見られない。過度に気にかけるわけでもなく、あくまでフラットな態度だ。それが佳織には、気に入らなかった。

 車の往来に紛れて、列車が向かってくる音がする。ライトグリーンのラインが、だんだんと大きくなる。


「せやったら、言うわ。もうええで。次の列車に乗って帰りぃや。あたしはもう、大丈夫やから」


 そう佳織が告げると、梨絵は佳織を見ながら一つ頷き、ベンチから立ち上がった。佳織に軽く頭を下げる。結ばれた唇は、言葉を堪えているように佳織には見えた。

 列車がやってくるのは、二人から見て反対側のホームだ。梨絵が線路を渡ろうとしたとき、佳織は声を上げていた。


「ちょい待ちぃや」


 自分でも知らないうちに言葉が出ていた。気づいた時にはもう立ち上がっていて、梨絵を呼び止めていた。佳織は唖然とした。

 振り返った梨絵は、今にも壊れそうな繊細な表情をしていた。佳織の胸は、強く締め付けられる。


「ええから、ここに戻ってきて」


 佳織は少し動いて、ベンチの近い方の席を空けた。梨絵は、何も言わずに戻る。

 空は夕陽も落ちて、いつの間にか暗くなってしまった。列車は対面のホームにいた学生たちを乗せて、走り出す。列車が過ぎ去った駅には、沈黙が流れる。梨絵は膝の上に手を置いて、人のいなくなったホームを見つめていた。


「自分、ズルいわ。こないただ隣に座られとったら、無碍になんてできへんて。あぁ、ほんまズルいなぁ」


 佳織が小さく呟く。今度は自分の中に留めておけたようだ。梨絵には聞こえていないらしい。いや、もしかしたら聞こえていないフリをしているのかもしれない。反応がないので、どちらかかを佳織が知る術はない。

 佳織は一息ついて、言葉を並べ始めた。今度は梨絵にもしっかり聞こえるくらいの声と、心構えで。


「あたしな、自分のこと強い人間やって思とった。自分にはちゃんと幹があって、何があっても揺るがへんって。そう言い聞かせとった。せやけど、今日分かってん。あたしは強ないって。相手に自分を認めさせることで、自分に価値がある思いとうて、必死になっとった。せやけど、その相手がおらんようになったとき、あたしには何もなかった。自分に自信が持てんから、相手に縋っとっただけなんやなって。自分を見ることから逃げとったんや」


 梨絵は何かアクションを起こすことはしない。頷くことさえしない。ただ、黙って聞くだけである。

 佳織はさらに続ける。


「薄々分かっていた思うけど、あたしアニメに興味ないねん。子供の頃かて見向きもせんかった。それでも、自分と一緒に旅をしとったのは、相手の趣味を受け入られるあたしは偉いって、自分自身を慰めるためやったんや。つまらん虚栄心やった。全部自分のためやったの」


「門司さん、そんなことないですよ。少なくとも私は、門司さんに自分の趣味を受け入れてもらえて、嬉しかったです。だってそんな経験、今まで一度もなかったですから。たとえ、門司さん自身のためでも、私にとっては励みになりました」


 黙って聞いていた梨絵がようやく口を開いた。ゆっくりと言葉を選ぶように喋っていた。

 受け入れることは簡単なはずなのに、佳織のプライドがそれを許さなかった。反発するように口調は強くなる。


「自分、あたしが何言うとるか分かっとる?あたしは、自信を持つために、自分を利用したんやで?自分はいいように使われたんや。空っぽの心を満たす道具としてな。誰かに認めてもらえへんと、自分の形を保てん。あたしは情けのうて、弱い人間なんよ」


 口の中が熱くなっている。唾も飛んでいたかもしれない。

 「門司さん」と梨絵が宥める。佳織は自分の心を落ち着けるように努めた。思いを吐き出すのに夢中になっていて、佳織は気付かなかったが、次の列車がもうすぐそこまで来ていた。

 停車した列車から人が降りてくる。そのうち一人は、佳織たちの隣のベンチに腰を下ろし、スマートフォンで動画を見始めた。やがて、駅に三人しかいなくなったのを確認すると、梨絵がおもむろに口を開く。


「門司さん、私が下津井で言ったこと覚えてます?」


 梨絵の問いかけに佳織は、首を横に振った。

 昨日のことだというのに、伊藤から受けたショックで、既に記憶がなかった。


「『強い人間って何ですか?』って言いましたよね。私、あれからずっと考えてたんです。強い人間って何なんだろうって。何度転んでも立ち上がることができるのが強い人間で、そうじゃなければ人間としてダメなのかなって。大勢の人が、理想像の強い人間に憧れて。まるで弱い人間でいることが、許されないみたいで」


 梨絵の目は佳織を真っすぐ見ていた。視線を逸らすことはない。まるで佳織の目に映る自分にも、言い聞かせているみたいだ。

 目が合う。


「でも、さっき広島駅で門司さんを見たとき、思ったんです。強いも弱いも、周りからそう見えてるだけだって」


 梨絵はさらに続ける。


「本来、人間に強い弱いなんてないなって思ったんです。周りの人がその人の一側面ばかりを見て、思い込みで強い弱いを決めつけてるだけなんだなって。レッテルを剥がしてみれば、そこにいるのは、ただ一人の人間。それ以上でも、それ以下でもないんです」


 梨絵は一つ一つ佳織に届く言葉を選んで、慎重に喋っているようだった。佳織は、何も言えなくなる。

 言葉を受け取ることに、集中したいと思った。


「人間は強くなくちゃダメとか、弱かったらいけないとか、そういうことじゃないんだと思うんです。門司さんは、人に決めつけられるまでもなくただ門司さんで、私はただ私。たったそれだけのことなんじゃないでしょうか」


 佳織の目を見つめたまま、梨絵は言い切った。口を閉じても、しばらく佳織から目線を放さない。

 真摯な梨絵の瞳が、あまりにも透明で、痛くて、佳織は目を下に逸らしてしまう。青いベンチに水滴が一粒落ちていた。二粒、三粒。そこで初めて佳織は、自分が泣いていることに気づいた。自覚したらもう止まらなかった。

 視界が一瞬で歪んでいく。すすり泣く声を抑えられない。

 膝の上で握った左手に、梨絵の右の手の平が重なった瞬間、佳織の中で何かが音を立てて崩れた。見上げると、梨絵が静かに頷いている。佳織は目頭を右手で拭った。

 付着した涙が、ほのかに温かかった。



(続く)

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