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【第29話】つよがりが剥がれるとき



 二人の関係はそこから始まった。蝉がうるさく鳴く季節には、お互いの部屋を行き来する関係になっていたし、誕生日には背伸びをして、小さなプレゼントを贈りあった。休日には阪堺電車に乗って、浜寺公園や恵美須町まで行った。黄色と青の目立つ路面電車は伊藤も気に入っていたようで、乗車中も二人はとりとめのない話を繰り返した。


 伊藤に誘われて、サッカーの試合も観に行った。新しくできたというスタジアムは、ピッチが近くて臨場感があったことを、佳織は覚えている。

 フリーターだった佳織が、商社で契約社員として働き始めたときも、伊藤は包み隠さず喜んでくれたし、大きな仕事を任され不安がる伊藤を、佳織は精一杯励ました。

 二人の間に秘密はなく、何でも言える関係を築けていた。そう思っていたのは、佳織だけだった。


 佳織にとって、伊藤と過ごした時間は一分一秒が、驚くほど幸福な時間で、何物にも代えがたいものだった。神様はいると感じていた。広島に転勤するときも、冗談めかして「他の女と付き合わんといてや」と言ったら、真剣な眼差しで、「んなことあるか」と怖いぐらいの迫力で、答えてくれたのに。

 それが、あの女にまんまと取り入られて。


 あんな男がいないと生きていけませんというオーラを、恥ずかしげもなく放っている女のどこがいいのだろう。純粋で、無垢なふりして、虎視眈々と男を狙っているしたたかな女。きっとホテルの料金だって、払ったことがないに違いない。

 佳織は軽蔑した。そんな女にまんまと騙された伊藤も、その程度の男と付き合っていた自分も。


 ふと顔を上げると、青緑色の列車に人が乗り込んでいくのが見えた。多くがイヤフォンをしたり、スマートフォンを見たりと、他人を気にするそぶりを見せない。

 列車は静かな音を立てて発車し、駅から姿を消したかと思うと、また次の列車がすぐにやってくる。何度も何度も。生き物みたいに刻々と。入ってくる列車は、緑、ベージュ、えび茶色とバラエティに富んでいたが、今の佳織を慰めるのに何の役割も果たさない。

 佳織はベンチの表面を手で撫でてみた。嫌になるほど滑らかな触り心地だった。


 私は、彼のことが好きだった。変なところで気が強いところも、すぐ謝る癖も、黒い髪を触るちょっとした仕草も、全てが好きだった。一時たりとも彼のことを忘れたことはなかった。仕事をしていても、列車に乗っていても、家で一人カップラーメンを食べていても、いつも彼が頭の大事な部分を占めていた。

 しかし、彼はどうだった。私のことなんて、そんなに考えていなかったのではないのか。私はあの女に簡単に替わられるぐらい、些末な存在だったのだろうか。

 彼の人生の中で私は、パートナーなんかではなくて、ただの脇役だったのだろうか。


 ああ、そうだ。私は強くなんてない。彼がいなければ、私は私の形を保つことができない。曖昧で、おぼろげで、他者ありきの弱い女、弱い人間だ。

 「強く見える」「自分を持っている」というのはおそらく、身勝手を良いように言い換えた言葉なのだろう。


 たとえ、間違った夢でも覚めずに、幸せに浸っていられたら、どれだけ良かったことか。叩き起こされた私の周りには、何もなかった。彼も、彼との思い出も。

 あったのはめそめそ泣く、一人の弱い人間だ。

 一人を必死に堪えている、痛々しい人間だ。


 佳織は、列車を見送り続けた。乗車する気は起きなかった。

 このまま列車に乗って、遠く離れられたとしても、私は私から離れられない。逃げられない。場所の移動なんて無意味だ。私が私でいる限りは。佳織は緑色のベンチに座ったままだった。

 湿った空気が頬を撫でる度、佳織は自分を恥じた。

 こんなに惨めな状態になっても、涙の一つさえ出ない自分のことが、もう分からなくなっていた。


 そのときだった。声がしたのは。


「門司さん」


 顔を上げてみると、梨絵がいた。白いカットソーを着て、穏やかな眼差しで、佳織を見つめる梨絵がいた。人の森の中で、埋もれながらも立ち続ける、か細い木のようだと佳織は思った。

 梨絵は、佳織に対して何も言わない。佳織は浮かんだ疑問を、投げかけてみる。


「自分、なんでここにおるん?映画祭に行ったんちゃうの……」


「もう観たいプログラムも終わったので、抜けてきちゃいました」


 そう言って梨絵は少し微笑んだ。虚勢を張っている、と佳織は直感した。昨日の夜、「映画祭は夜までやってるんですよね。どうせならできる限りいたいと思ってます」と、梨絵が言っていたからだ。

 気を遣わせてしまった。

 佳織は、また頭を下げてしまう。顔向けができないとはこのことか、と感じた。


 俯く佳織の隣に梨絵はそっと座る。肩を叩くでも、手を握るでもない。ただ、座って駅から見える光景を眺めていた。駅前の道路を行き交う自動車のライトが点き始めている。


「やっぱりここにいたんですね。門司さんがどこに行くか考えたら、一番はここかなって。思った通りでした」


 列車は等間隔でやってきて、人々を降ろし、また、乗せていく。同じ列車に乗っていた人々が散り散りに、それぞれの目的地へと去っていく。屋根の影が長く、反対側のホームまで達している。

 佳織は梨絵が隣にいることに、微かな居心地の悪さを覚えていた。梨絵が何も話さず座っているだけだから、自分から話すことを強要されているように感じていた。


「なぁ、あたしな……」


「門司さん、話したくなければ、無理して話さなくても大丈夫です。私からも何も聞きません。私はただ門司さんの隣にいたくて、いるだけですから」


 梨絵は佳織の方を向かずに言う。言葉は空気に溶けていって、なくなった。二人の距離も、間に流れる沈黙も、変わらない。変わるのは入線する列車と駅にいる人々だけだ。

 隣に人がいるというだけで感じる無言のプレッシャー。自分の時間だけが止まっている感覚。


 二人の目の前に、クリーム色と深緑色の列車が停まった。艶の消えた外装が、刻んできた時間を思わせる。

 降車客が一段落すると、佳織は衝動的に列車に駆け込んだ。居ても立っても居られなかった。逃げ出したい気持ちに押し潰されそうだった。

 外装と同じ深緑色のロングシートに佳織は雪崩れ込み、すぐに顔を伏せた。自分がどんな顔をしているのかと思うと、とても顔を上げられるわけがない。梨絵も乗車し、先ほどまでと同じように佳織の隣に座る。

 間もなくして、列車は発車した。車内に話し声はない。


 列車は広島の市街地を行く。広い道路の中央に位置した線路を、悠々と進んでいく。自動車に軽く追い抜かれたとしても、マイペースに走り続ける。

 車窓のどこか忙しそうな光景とは打って変わって、車内には落ち着いた空気が流れていた。おおらかな川。木々の向こうに原爆ドームが見える。

 だが、そんな光景も俯く佳織の目には入ってはいない。梨絵もまた何も言わない。佳織に視線をやることもあまりせず、車窓をぼんやりと眺めているだけだった。



(続く)

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