【第28話】半額の恋
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午後八時になっても、レジの列は混んでいた。やや急いでいるであろう客が、舌打ちをしている。
佳織はあくせくとレジスターと、押し寄せる客に立ち向かっていた。佳織が初めて店頭に出る日は、運悪く特売日で、大量に買い込む客が目立つ。狙ったように佳織の元にばかり、買い物カゴを二台とも満杯にした客が来るので、佳織は心底疲れていた。後ろについてくれる指導係の、森岡の態度もどこか刺々しい。
「お会計、五八六〇円になります」
「おい、このもやし半額やろ。ここにシールがついとんで。なんで値引かれてへんの」
「申し訳ありません。訂正させていただきます」
とは言ったものの、佳織はまだレジスターの扱い方に慣れていない。取り消しボタンを探すのにあたふたし、その間にも会計の列は伸びていく。
森岡が心配そうに見つめている。
「自分なにしとんねん。こっちは急いでんねんから早よせぇや」
「すいません、もう少々お待ちください」
「もうええわ、他の人も迷惑しとるし。後ろの人に代われや」
そう言われると、頭を下げて森岡と代わることしか、佳織にはできなくなる。「お客様、申し訳ございませんでした」と森岡は、佳織が二分かけてもできなかった動作を、ものの五秒で終わらせた。
レジを去る客の「ったく、何しとんねん」という何気ない呟きが、佳織にはひりつくように耳に張り付いた。
森岡に促されて、佳織はレジに戻る。今度はちゃんとしてよね、という釘付きだ。
「い、いらっしゃいませ……」
佳織の声は、小さくなる。次にやってきた客は男性で、佳織と同年代のように思えた。買い物かごの中には、パックされたコロッケが二つと、野菜サラダが一つ。全てに黄色い半額のシールが貼られている。佳織は慎重にそれらをレジに通す。
男性の顔は怖くて見ることができない。
「大変やな」
声が聞こえて、会計の途中だというのに、佳織は顔を上げた。目の前の男性はスーツ姿。眉が上がっていて、地味ではあるが、整っている部類に入るだろう。
佳織は一瞬、思わず手を止めてしまった。だが、すぐに我に返り、レジを打つ。
「お会計、二五六円になります」
男性は一〇五六円を差し出す。そのままレジスターに入れようとする佳織。だが、森岡からの視線が刺さる。
「あの、ポイントカードはお持ちでしょうか」
順番が前後した質問。本当なら会計の前に言うべき案内だ。かえって時間をロスしてしまう。だが、男性はこの世の真理に気づいたようにハッとし、財布からポイントカードを出して、佳織に直接手渡した。柔らかな微笑みつきだ。
処理を済ませて、男性にポイントカードを返す佳織の手は、少し震えていた。
その後も週二回ほどの頻度で男性はスーパーマーケットにやってきた。半額の惣菜と野菜サラダを買うのが、お決まりのパターンだった。そして、よく佳織のいるレジに並んだ。ポイントカードは、佳織に言われる前に出した。
佳織の中で、その男性は半額シールの人という認識になっていた。きっと、食費を切り詰めなければならないほどの、経済状況なのだろう。そのくらいの推察は、フリーター二年目の佳織にはわけもなかった。
その日は、梅雨真っただ中の雨空だった。佳織は午後十時にアルバイトを上がり、最寄り駅に向かっていた。傘を差しても地面からの跳ね返りで、足元がずぶ濡れになるほどの強い雨だった。
駅に着いて、屋根の下で列車を待っていると、傘もささずに濡れ放題の男性が、ホームに飛び込んできた。中肉中背の平凡なスーツ姿。左手には、レジ袋を持っている。半額シールの人だと、佳織は直感した。
屋根に守られてほっとしている姿は、母親を見つけた子供のように思えた。
列車の中でも、少し色あせた座席に座ることなく、男性は吊革を手にして立っていた。ずぶ濡れの自分が座って、席を濡らしたくないという配慮だろうか。
気がつくと佳織は、その男性のことばかり見ていた。くしゃみをした時には心配したし、震えが収まっていく様子には安心した。車窓から見える外の景色は雨一色だったが、佳織の視界は実に色彩が豊かだった。
一〇分ほど列車は路面を走っていき、佳織の部屋の最寄り駅である、住吉駅に到着した。駅と言えば聞こえはいいが、実際には道路の真ん中にポツンと浮かぶ、バス停みたいなものだ。それでも、佳織は正面には住吉大社が見える駅の風景が嫌いではなかった。
列車を降りてすぐ傘をさす。雨は先刻よりも激しさを増している。
男性は列車を降りるやいなや、猛スピードで走っていった。革靴が水たまりを踏みしめる音。
男性は駅近くにある駅舎に入っていった。こちらも駅舎というよりも、実際は屋根のある休憩場に近い。塗装もところどころ剥げていて正直、古い。
そんな駅舎に男性は飛び込み、手で髪についた雨粒を払いのけていた。そのまま帰ってもよかった。なのに、そのとき佳織は、ほんの気まぐれを起こしてしまった。駅舎に向かって歩いていく。
男性は遠く空を眺めていた。雨が止んでくれないかと祈るように。佳織は駅舎の中に入って、男性の横に並んだ。
話しかけるのに、勇気はさほどいらなかった。
「大丈夫ですか、傘がないみたいですけど」
「それなら大丈夫です。この調子やともうすぐ雨も止む思いますし」
雨は激しさを増す一方だというのに、何を根拠に言っているのだろう。佳織は少し笑ってしまう。
「すいません、何かけったいなこと言いましたか」
「いや、おもろいこと言うな思て。あの、間違いじゃなければ、堀江のスーパーによう来てません?いつも半額のお惣菜と野菜サラダを買っていっとる」
そこまで言って、男性は話しかけてきた女性が誰か、察したようだった。表情が一気に明るくなる。
「いつも火曜と金曜にレジに入っとる店員さんですか。確か名前は、門司さんいいましたよね」
「はい。降りる駅が一緒なんて奇遇ですね。こっちの方に住んどるんですか?」
「東粉浜の三丁目の方です」
「私は長峡町の方です。やっぱけっこう近いですね」
「こっちの方には昔から住んどるんですか?」
「生まれたときからです」
「そですか。俺最近、この辺に引っ越してきたばっかで。まだまだ慣れないことも多いです」
「まあそのうち慣れる思いますよ。気持ちを強う持つことが大切です」
佳織は励ますようにつぶやいた。雨は止む気配を見せない。少し勇気を出してみようと思い立った。
「あの、お名前は何と言うんでしょうか」
男性は少し溜めた後に、こう口にした。
「伊藤といいます」
(続く)




